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2016.07.24

佐村河内守についてのドキュメンタリー『FAKE』を見てきた

この土曜日,ツマと一緒にYCAMに出かけ,佐村河内守を取り上げた映画『FAKE』(森達也監督)を見てきた。

この映画,メッチャやばい。頭が混乱する。

見ているうちに,次第に佐村河内守とその妻・香さんがとても魅力的な人々に思えてくる。

最初は疑いの目を以て,あるいは蔑みの目を以て佐村河内守という人物を見ていた人々の多くは,この映画を見ているうちに佐村河内夫妻に感情移入していくことになるだろう。

そして,佐村河内守に対して年末特番への出演を依頼するフジテレビのスタッフ。佐村河内守の「悪事」を暴き糾弾した筈のノンフィクションライター・神山典士。佐村河内守のゴーストライターを務めてきたという現代音楽家・新垣隆。これらの人々がむしろ不誠実な人物たちのように見えてくるから恐ろしい。

例えばこんな演出がある。今を我が世の春とばかりにテレビや雑誌に登場する新垣隆。これを自宅で黙って見つめ続ける佐村河内守。こうした対比を繰り返し見ているうちに「ゴーストライター騒動」後に定着した両者の評価の逆転が起こる。これは恐るべき演出の効果だ。

"WIRED"誌のインタビュー記事(「『FAKE』――それは付和雷同の国への楔:森達也、15年ぶりの新作を語る」)において,森達也は「純愛映画を撮ったつもりですけど」と言っているのだが,この映画,実際,佐村河内守と妻・香さんとの美しい夫婦愛のドキュメンタリーとして見ることができる。上映会場でも佐村河内守が香さんへの感謝の気持ちを述べるシーンで,聴衆のすすり泣く声すら聞こえた。こっちももらい泣きしそうになった。

『FAKE』のパンフレットでは作家の岡映里が「すべてを喪ってなお残るもの」という文章を寄せているのだが,その中で岡映里が触れているように,このドキュメンタリーは失意から立ち上がる物語でもある。森達也は決して無色透明・永世中立の監督ではなく,佐村河内守に介入することによって,佐村河内守を作曲家として再生させてしまった。

こういう風に書いていくと感動のドキュメンタリーという感じなのだが,じつはそう簡単な話ではない。

夫婦の純愛,失意からの再生ということが描かれているのは間違いないのだが,それらすらひっくり返そうとする演出が出てくるあたり,この映画は一筋縄ではいかない,複雑な映画でもある。

佐村河内守の引き起こした騒動,その全貌はこの映画では完全には明らかにならない。ただ,神山典士や新垣隆が主張することだけが真実ではなさそうだ,ということを観客に感じさせる。『FAKE』のパンフレットで重松清が「豊穣なグレイゾーン」と言っているが,まさしくその通り。


「真実とは何か。虚偽とは何か。この二つは明確に二分できるのか。メディアは何を伝えるべきなのか。何を知るべきなのか。そもそも森達也は信じられるのか。」(森達也,『FAKE』公式プログラムより)


【追記】

2016年7月8日付で新垣氏所属事務所からこの映画に対する見解が出ているので,リンクを張っておく:

映画「FAKE」に関する新垣隆所属事務​所の見解

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コメント

何がFAKEなのか、作品と作品がとらえた対象と対象が語る言葉、取り巻く様々な言説が入れ子構造になって再帰的にFAKEの意味を問いかけてくる。。森達也面目躍如といった感ある力作でしたね。作品のエンターテイメント性も含めて。

投稿: 拾伍谷 | 2016.07.25 00:08

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