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2016.07.21

書簡によるクーデター:トルコにおける1971年のクーデター

1971年3月12日,メムドゥフ・ターマチ(Memduh Tagmac)参謀総長からデミレル首相に対して書簡が手渡された。「書簡によるクーデター」の始まりである (1971 Turkish military memorandum)。

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5月27日のクーデターの翌年,1961年10月に行われた総選挙ではイノニュ率いる共和人民党が比較第一党となった。しかし共和人民党は過半数を占めてはおらず,政局は不安定なままだった。

1965年の総選挙では,デミレル率いる公正党が大勝した。公正党は先のクーデターで倒された民主党の後継政党であり,中道右派路線を採っていた。与党が議席の過半数を占めていることにより,比較的安定した政権運営が可能となっていた。

公正党政権の下,トルコ経済は順調に成長した。しかし,国内の経済格差は拡大していった。

公正党政権が積極的に推し進めた外資導入は,経済成長を促した一方で,国内の中小資本家や商人に対して打撃を与えた。農業の機械化は,生産性を向上させ,地主層や富農層に恩恵をもたらしたものの,農業労働者を失業に追い込んだ。経済格差に不満を持つ者たちは左右両翼の政治活動に身を投じていった。


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さて,先のクーデターの後,1961年5月に制定された憲法の内容は民主的なものだった。この憲法の下,トルコ国内の言論や政治活動は活発化したが,同時に左右両勢力の衝突も激しいものとなった。

左派勢力としては左派学生運動,トルコ労働党,革命的労働者組織といったものが,右派勢力としては反世俗主義でイスラム原理主義的な国民秩序党,汎トルコ主義を掲げる民族主義行動党といったものがあった。

1969年の総選挙では,デミレル率いる公正党が再び大勝したものの,上述の経済格差拡大を背景として,左右両勢力による街頭デモ,ストライキ,テロが繰り返され国内は騒然とした状況になっていた。

1971年1月以降,混乱は極限に達した。過激派の大学生による銀行強盗や米国軍人の誘拐,ネオファシスト団体による爆弾テロ,全国的なストライキ,国民秩序党による反ケマリズム運動の激化,等々が発生し,デミレル政権は機能不全に陥った。

このような状況で始まったのが,軍部の「書簡によるクーデター」である。


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軍部が書簡により要求したのは「民主主義の枠組みの下,強く信頼に足る政府を樹立すること」であった。

そして,当時の無政府状態,同胞同士の殺し合いを終わらせ,「アタテュルクの慧眼」に習い,憲法の下,政治改革を推し進めていくことが新政府の役割であると主張していた。

このあと,デミレル内閣は退陣し,4月27日に戒厳令が布告された。

戒厳令の下,学生組織は解散,政治集会,左翼系出版物,ストライキは禁止となった。

民政への移管は1973年10月の総選挙まで待つこととなる。

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