言語は変わるよどこまでも
先日からコセリウの『言語変化という問題』をだらだらと読んでいるが,ソシュール批判が小気味よい。
言葉は個々人の話す行為 にしか現れないし,話すとはいつでもある一つの言語 を話すということに他ならない。ことば なるものはいやおうなしにこのパロールとラングとのどうどうめぐりの中にある。
ソシュール自身このことをかなりはっきりと見通していたが,この循環から逃れようとして決然として「ラング」をえらんだ。
(E.コセリウ著・田中 克彦訳『言語変化という問題』,49頁)
ソシュールの「共時性」のアイディアは構造主義の源泉となり,社会システムの恣意性,つまり現在の社会システムが必然性をもって進化したものではないことを示すことに成功した。
しかし,ソシュールは言語変化(敢えて進化とは言わない)の側面についてはほとんど触れなかった。言語<ラング>を話す行為<パロール>から分離し,研究作業用の概念に過ぎなかったラングをついには結晶化したシステムとして取扱い,これが言語そのものであるかのように錯覚してしまった。
構造主義もまた,現存の社会システムの構造の記述に終始し,そこから外には出なかった。それは学究的つつましさでもあるが,構造の記述のみが,対象とするシステムへのアプローチ手法ではない。
コセリウはシステムのダイナミズムを忘れてはならないと警告する。
ところで,言語 は話す行為 の中で機能し,その中で具体的に姿を現す。この事実を言語のあらゆる理論の基礎として採用するならば,ことばはエルゴンではなく,エネルゲイアであるという,あのフンボルトの有名なテーゼから出発することになる。
(E.コセリウ著・田中 克彦訳『言語変化という問題』,49頁)
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