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2015.10.22

鴎外はトルストイ『生ける屍』にご執心

森鴎外『椋鳥通信(下)』冒頭の1911年12月1日発「椋鳥通信」は,トルストイの戯曲『生ける屍 (Живой труп)』の興行情報だらけである。

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以下,関連する部分を引用してみる。ページ数は『椋鳥通信(下)』のそれである。

○10月16日にモスクワの芸術家劇場でLeo Tolstoiの「生きたる死骸」の初興行があった。素行の修まらない官吏Fedor<フェドル> Protassowが失踪した。その妻Lisa<リザ>には若い時からの友人がある。Victor<ウィクトル> Kareninと云うのである。フェドルは遺書を作って自殺しようとすると,乞丐の娘Maschaが止める。リザは夫が死んだと思って,ウィクトルと結婚する。後フェドルが居酒屋で発見せられる。リザは重婚のために告訴せられる。フェドルが法廷で自殺する。ざっとこんな筋である。(15ページ)

小泉信三が『読書論』で語っていたが,鴎外は要約の名手で,海外の小説や戯曲のあらすじを数行でまとめることができた。ここでもその手際の良さを見ることができる。

ただし,鴎外がこの作品を直接読んでいたかどうかはわからない。

トルストイは1910年に没し,その直後,『生ける屍』は未完ながらも遺作として発表された。ロシア語の原本から鴎外の得意とするフランス語かドイツ語に訳されるまでには時間が必要だろうし,あらすじだけ知っていたのかもしれない。

なお,「乞丐の娘Mascha」と書いているが,正確にはロマ(ジプシー)の歌手である。

○ドイツでのTolstoi遺稿「生きたる死骸」の第一興行は,十月二十八日ハンノオウェルのDeutsches Theater[ドイツ劇場]に於てせられる。(25ページ)
○ハンノオウェルのドイッチェス・テアアテルのTolstoi作「生きたる死骸」の興行は全く失敗に帰した。ロシアの原本をFrappa, Siberと云う二人のフランス人が訳し,それをAlfred Lickteigと云うものが重訳した本を使ったので,物になっていなかった。August Scholtzの訳(Berlin, J. Ladyschnikow [J.ラディシュニコフ書店])は完全である。(28ページ)

現在では『生ける屍』と訳される<<Живой труп>>だが,鴎外は,まず「生きたる死骸」と訳した。しかしページが進むと「生ける死骸」というように若干違う訳をしている。

○ロシア人Alexander Solowjewの云うには,Tolstoiの「生ける死骸」は,自分が1908年に作った「生ける亡者」を剽窃したものだと云っている。(36ページ)
○十一月十四日にはホオフブルヒ(ウィイン)での「生ける死骸」が善い訳本で初興行になった。(38~39ページ)
○Neues Volkstheater [新民衆劇場](Berlin, Koepennicker Strasse [ケペニック通り])で,Tolstoiの「生ける死骸」を興行した。訳者はAdolf Hessである。大舞台の上に一段小さい舞台を据えて,白い木の枠で囲んだ。小道具は卓,椅子位に留めて,已むことを得ない時丈長椅子を使った。場所の変更は貼壁のような背景で見せた。(49ページ)

『生ける屍』は世界的な大ヒット作となった。鴎外はその盛り上がりぶりをリアルタイムで伝えたかったのだろう。

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