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2014.11.07

(続)加賀藩・小幡宮内家の近世

加賀藩・小幡氏シリーズ第3弾。

なお,前2弾は次のとおりである:


小幡宮内長次(おばたくないながつぐ)に始まる,加賀藩・小幡宮内家。

家中の最大の事件は,宝永三年の小幡宮内立信(長次の孫)の乱気・改易騒動であった。

先日取り上げた怪異譚「浅野の稲荷」では小幡宮内家はお家断絶ということになっているが,実際には立信の子,満清に新たに2000石が与えられ,家は再興されている。

また,立信の弟,治部丞は別に家を立て,500石の知行を得ている。ツマのご先祖で幕末の武士・小幡嘉十郎信清(おばたかじゅうろうのぶきよ)サンは治部丞の子孫である。

治部丞から信清サンに至るまでの間,小幡治部丞家は平穏無事だったかと言うと,そんなことはない。大事に至らなかったものの,『加賀藩史料』(石黒文吉,昭和4年~17年)に残る事件を起こしている。安永8年11月の「鳥構事件」である。


◆   ◆   ◆


鳥構」をどう読むのかはよくわかないが,城の造りに「惣構(そうがまえ)」というような言葉があるので,とりあえずここでは「とりがまえ」と呼んでみる。

山本充という研究者が「北陸地方における鳥猟文化の変遷に関する研究」という論文の中で,「鳥構」について説明しているので,引用してみる:

江戸時代の加賀藩では,1659(万治2)年に金沢で,そして1665(寛文5)年に石川・河北郡で天之網禁止令がだされたように,初期の頃にすでに,網を用いた鳥猟が行われていたことが明らかである。この天之網は,いわゆる霞網とは異なりものと推察されるが,その実態は明らかではない。その後も,藩士によって,「鳥構」という名称のもとに鳥猟が行われていたことが知られる。武士による鳥猟は,生業と言うより武芸としてなされており,1823(文政3)年に,鳥構の禁止令がだされたことをはじめとして,たびたび禁止令が発布されており,実際には,盛んにそれが行われていたことを示していよう。(山本充「北陸地方における鳥猟文化の変遷に関する研究」,2007年度日本海学研究グループ支援事業,2~3ページ)

ということで,「鳥構」とは詳しい形態はわからないものの,鳥猟の一種であり,武芸と見なされていたということがわかる。

さて,この知識を得たところで,『加賀藩史料』の安永8年(1779年)11月13日の項を読んでみる:

十一月十三日。小幡右膳,禁止区域に於いて鳥構場を設けたるを以て戒飭(かいちょく)せらる。

〔御馬廻頭手留〕 小幡勘太夫せがれ右膳儀,石川郡大桑村領之畠之内に有之候(これありそうろう)松木に,はりの木結付名札を付,鳥構場を切立置候に付,御鳥見之者見付,名札等下させ為持遣(もたせつかわし)候段及断候。野田山峯よりこなたは御留場之儀,其上御郡奉行えも断におよばず構場切立候段,不調法千万之儀に候。急度相咎申候得共,鳥構候儀は見届不申由に付,其儀には不及候條,以来之儀急度相心得候様被申渡,叱置可被申渡候事。

ようするに,小幡勘太夫の息子・小幡右膳という武士が,加賀藩の禁猟区に鳥猟の仕掛け,つまり「鳥構」を設置していたのが発覚し,戒告処分を受けたという話である。

名札や鳥構の設置場所を準備していたものの,鳥構自体は見つからず軽い処分で済んだらしい。ギリギリセーフ。改易にならず,ようございました。


ここで,勘太夫や右膳が誰なのかを確認するために,系図を見てみよう。

小幡宮内長次以降の系図を示す:

2_2

戒告処分を受けた小幡右膳というのは治部丞から見るとひ孫で,信清サンから見ると大伯父にあたる。

当たり前だが,勘太夫は治部丞の孫,信清サンの曾爺さんである。

その後,右膳はトラブルを起こさなかったようで,寛政12年(1800年)に御普請奉行加役(代理),享和2年(1802年)に御普請奉行に就任している。

しかし,文化元年(1804年)4月27日に56才で頓死し,弟の多門信道が家を継ぐこととなった。

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