鳥居哲男『倍尺浮浪(ばいじゃくはぐれ)』を読む
『清らの人』や『折口信夫&穂積生萩 性を超えた愛のかたち』など,折口信夫の人物像に迫る著作を送り出してきた鳥居哲男氏が2011年に上梓した小説『倍尺浮浪(ばいじゃくはぐれ)』を読んだ。とても面白い小説だった。
まず,倍尺とは何か。
標題紙を繰るとこのような一文が書かれている。
「倍尺とは,新聞を作る場合にだけに使われる特殊なモノサシのことである」
本書83頁に説明があるのだが,倍尺の「倍」というのは,かつての新聞で用いられていたベタ活字の縦の長さ,0.088インチを1倍とする単位である。当時の新聞の世界だけで通用する特殊な単位である。
この小説のタイトルである「倍尺浮浪(ばいじゃくはぐれ)」とは,新聞社や出版社に属さず,倍尺だけを持って出版の世界を渡り歩き,どんな割付の仕事でも成し遂げる男たちのことを指す。
この小説は,紙面づくりに魅了された主人公の成長を描く青春記としての側面もあるし,昭和50年代から始まった紙面制作電算化の中で消えて行った技能職たちへの挽歌という側面もある。
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新聞の紙面づくりが手作業だった時代,紙面は割付,採字(文選),植字を行う男たち,いわば倍尺使いたちの技術によって作られていた。
新聞社では,発行期限ぎりぎりで記事全面差し替えなどの危機がたびたび生じる。この危機に直面して,色めき立つ,いやむしろ意欲・能力が最高潮に達するのが主人公の師である六さんら倍尺使いたちである。本書では彼らの超絶技巧によって,ごく短時間に奇跡のように完成度の高い紙面が作られる場面が描かれている。
とくに六さんと大岩による「ぶっつけ本番のナマ組」によって業界紙の紙面が作られていく情景(本書6章,236頁~247頁)など,まるで目の前で繰り広げられているような生き生きとした描写である。
以前,ヒストリーチャンネルで「職人の道具」という番組があったが,そこである職人が言っていた言葉を本書を読みながら思い出した:
「芸術は綺麗でしょ。職人は綺麗で速い」
この小説で描かれるのは紙面づくりのことばかりではない。主人公の交友関係・恋愛関係も描かれている。また,折口信夫/釈迢空の歌がときおり小道具のように登場したりする。
それでも小生にとってはこれは「職業小説」であるという印象が強い。
この小説を読み終わった後で思い出したのが小関智弘の『春は鉄までが匂った』という,1970年代終わり頃の町工場を描いたルポルタージュである。
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当時,コンピュータ搭載の工作機械が登場し,職人不要の時代が来ると言われた。いわゆる「ME(マイクロエレクトロニクス)革命」の到来である。しかし,町工場は無人にはならなかった。熟練工は今もなお活躍し続けている。
それはなぜか。ある程度自動化が進むにせよ,今のところ,人間が創意工夫をする余地が残っているからである。逆に言えば,自動化で済む程度の技能は不要になったわけである。トップレベルの職人はME革命後も必要とされた。
ある町工場のオヤジの言葉:
「数値制御の機械がどんなに進んでも,人間の手と頭よりすぐれた制御能力はないってことが,あなたにもいまにわかりますよ」(『春は鉄までが匂った』34頁)
鳥居哲男『倍尺浮浪』でも紙面作成電算化(CTS)の流れが押し寄せてきて,旧時代の倍尺使いたちは姿を消していく。しかし,『春は鉄までが匂った』の町工場と同じように,新たな芽が兆すところも描かれている。
エピローグでは,齢を重ね,今や六さんの衣鉢を継ぐ紙面作成の名人となった主人公が,コンピュータシステムを駆使して紙面作りに挑戦する若者と出会うところが描かれている。
時代が移り,道具が変わろうとも紙面づくりの遺伝子は受け継がれていくのだ。そしてまた,主人公自身もコンピュータを新たな倍尺として使おうと,一歩踏み出す。倍尺使いたちへの挽歌だけで終わらず,希望を抱けるようなエンディングとなっているのが実にいい。
今から十数年前に「本とコンピュータ」という本づくりを多面的に考える雑誌があった。その雑誌が出ている頃に『倍尺浮浪』が出ていれば,きっと評判になっただろうな,と若干残念な気もする。
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コメント
「コンピュータを新たな倍尺として使おう」
ここがグッときますね。職人技術の継承とは畢竟、職人の精神の継承と言うことでしょうか。グーテンベルクの魂…
投稿: 拾伍谷 | 2014.11.12 01:47
やはりグッとくるところは同じですね。
この小説は青春期の側面も恋愛小説の側面もあるのですが,クラフトマンシップの継承というところが最も強く印象に残ります。
投稿: fukunan | 2014.11.14 03:07