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2014.10.31

加賀藩・小幡宮内家の近世

ツマの先祖に小幡嘉十郎信清(おばたかじゅうろうのぶきよ)という加賀藩士がいた。禄高500石というから平士,加賀藩では中級の武士である。手元の資料では生年がわからないが,幕末の文久元年(1861年)4月2日に父・治部助から家督を継いでいる。そして明治18年(1885年)8月4日に没している。


◆   ◆   ◆


加賀藩士としての小幡氏は小幡宮内長次(おばたくないながつぐ)に始まる。微妙(みみょう)公,つまり前田利常に仕え,家老,金沢城代を歴任した。禄高は10,950石に達した。小大名並みである。

長次の兄,右京もまた微妙公に仕え,10,000石の知行取となった。この兄弟が厚遇されていたのは異父妹・阿千代保(おちよぼ)が前田利常の生母,寿福院だったことによる。

兄・右京の家は7,000石の家と3,000石の家に分かれ,7,000石の家は当主が早世し途絶えた。3,000石の家は幕末まで続く。

弟・宮内長次は寛文4年(1664年)にリタイアし,寛文8年(1668年)に没した。宮内長次の屋敷は現在の金沢市役所の位置にあった。家の前には小さな橋があり,後に宮内橋(くないばし)と呼ばれるようになる。その橋は今も,市役所と金沢21世紀美術館の間の道を下ったところに残っている(参考)。

宮内長次は,犀川を越えたところ,現在の千日町と白菊町の一帯にも広大な下屋敷を構えていたが,後に述べる事件によって,この屋敷は失われる。


◆   ◆   ◆


宮内長次の家は長次の次男・宮内長治(くないながはる)に継がれた。

長治には長男・宮内立信(くないたつのぶ),次男・大学(だいがく),三男・治部丞(じぶのじょう)という三人の息子がいた。家督は長男・立信が継いだ。知行10,950石のうち,300石を叔父の又助に譲ったので,禄高は10,650石となった。

次男・大学は分家として新たに知行500石を得たが,早世した。三男の治部丞が大学の後を継いだ。この治部丞の子孫が冒頭の小幡嘉十郎信清である。

さて,本家・宮内立信の家だが,そのまま順調にいけば幕末まで1万石級の上級藩士,加賀藩で言えば人持組の一員として藩行政の要職に就く人材を輩出していたかもしれない。しかし,宝永3年に事件が起こった。


◆   ◆   ◆


立信は元禄年間に火消役,神護寺請取(うけとり)火消役などを歴任していたが,あるときから精神を病んだ。

一族によって下屋敷に幽閉されていたのだが,宝永3年(1706年)のある夏の日の夕刻,こっそりと家を抜け出してしまった。そして,金沢城下を流れる犀川のほとりを彷徨っているところを町方役人に捕えられた。この事件が原因で立信は禄を召し上げられてしまった。

この事件,『加賀藩史稿巻之十二,列伝第十』ではこのように記している:

「宝永三年夏夕。潜(ひそか)に幽室を出でて,城西犀川の涯を徜徉(しょうよう)し,邏卒の捕うる所となる。諊(きく)するに及びてその名氏を白す。事聞す。その喪心者たるを以て特旨(とくし)死一等を減じ,十一月,禄を奪い,籍を削る。」

川原をぶらぶらしていただけで死罪になりかかったというのが解せないのだが,何か他にもトラブルを起こしたのかもしれない。そのあたり,重臣小幡氏の名誉のため伏せられているのかもしれない。

知行没収により,下屋敷も取り上げられ,足軽五十人組の組地となり,後に五十人町と呼ばれるようになった。その五十人町も昭和になって,千日町と白菊町に編入されてしまい,小幡宮内下屋敷の名残は無くなる。

なお,『角川日本地名大辞典(旧地名編)』では,知行没収の年を寛永3年(1626年)としているが,それだと立信の祖父,宮内長次の若いころということになってしまう。執筆者は宝永の旧字,寶永を寛永と読み間違えたのだろう。


後日,立信の子,満清に新たに2,000石が与えられた。宮内長次以来の小幡氏は継続することとなった。これで,小幡宮内長次の子孫は宮内立信流と治部丞流の2家が幕末まで続くこととなる。

Photo_2

     (↑小幡宮内家家系略図)

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コメント

小幡氏と言うと信玄に仕えた上州の小幡信貞を思い出しますが、加賀の小幡氏はその流れの様ですね。
数多の名将を擁した武田軍中にあって山県昌景と共に赤備えの先方を任された猛将がご先祖の奥様とは…

投稿: 拾伍谷 | 2014.11.01 03:00

小幡宮内長次は越中神前(かみまえ?かんざき?こうさき?)氏を祖としていました。

越中松倉城主・椎名右衛門太夫泰種の家臣に神前筑前という者がおり,椎名泰種の姉妹との間に神前和泉という子をもうけていました。

椎名泰種が跡継ぎを残さず没した後,神前和泉は同僚の小幡九助とともに松倉城を守っていました。和泉の子が小幡九助の養子となり,九兵衛と名乗りました。九兵衛の子が小幡宮内長次と小幡右京です。

小幡九兵衛の再婚相手の連れ子が寿福院こと阿千代保(おちよぼ)であり,前田利常の生母となります。

小幡九助の祖はよくわかりません。武田家の猛将・小幡信貞と祖を同じくするのであれば,小幡宮内長次と小幡信貞との間に関係が生ずるのですが。

投稿: fukunan | 2014.11.01 15:38

 はじめまして。このページにたどり着き感激しています。
 私は加賀藩武家の寺檀制や信仰について、人持組を中心に調べております。小幡家につきましては事例研究の中核の一家です。具体的には右京家の流れである式部、図書家が中心ですが、小幡家全体につきましても極めて興味深い史料が管見に触れました。
 御令室様が御子孫の流れであられるとのこと、大変不躾ですが御教示いただけることがあれば有り難く存じます。

投稿: ぎょく | 2018.01.08 20:19

ぎょく様

拙文お読みいただきましてありがとうございます。
小幡右京家の流れについてご研究されているとのこと,非常に興味を持ちました。

小幡宮内家については(1)宝永3年の怪事件,(2)小幡嘉十郎信清の幕末・維新,の2テーマを研究しております。

(1)については別記事「小幡宮内拾遺:小幡宮内立信はお稲荷さんの祟りで乱気したという怪異譚」で,宮内立信没落に関する伝説を取り扱いましたが,実際のところは怪異譚であろうはずはないと思っております。藩内政治と絡んだ陰謀でもあるのではないかと,資料の探索をしているところです。

小幡家に関して情報提供できることがあるかもしれませんので,ご興味ございましたらご連絡お願いいたします。

投稿: fukunan | 2018.01.10 01:07

 お世話になっております。私のテーマでは幕末までなかなかカバーできませんが、立信さんの改易については、私も単なる乱心とは距離があるように思われます。
 さて、昨今は個人情報という概念により、史料の発掘調査が難しくなりました。寺院の位牌、過去帳、墓地などは百年以上の時を隔てても思うようになりません。小幡家に関しましては、菩提寺に位置づけられる寺院が複数存在し、興味深い形態が見られます。
 これらにつきましても、上述の理由から具体的なお尋ねをこの場に記することに聊か躊躇があります。もしよろしければメールでのお尋ねをお許し下さい。よろしくお願い致します。

投稿: ぎょく | 2018.01.10 23:41

ぎょく様
お世話になっております。
メールでの連絡は構いません。
アドレスは本ブログ右上のプロフィールからホームページ,研究室ホームページへと進んでいただければ,見つかりますので,よろしくお願いいたします。

投稿: fukunan | 2018.01.12 16:28

小幡様 初めまして。わたくしは千葉県において関東武士の千葉氏の全国的な伝播について研究しています鈴木と申します。よろしくお願いします。松倉城主の椎名氏は鎌倉幕府草創期の有力御家人 千葉常胤の弟・椎名胤光の末裔にあたります。椎名氏は事実上、滅亡してしまいますが、血筋としては、この小幡氏につながっていると考えています。以前、石川県立図書館で系譜等を入手しました。
7月に改めて金沢市内の千葉氏についても調べようと思います。そこで、小幡氏3家の菩提寺の墓参もしたく思っています。菩提寺についてご存じありまたら、ご教示よろしくお願いします。

投稿: 鈴木佐 | 2020.06.16 17:13

鈴木様

小幡氏系図の初めにある「小幡氏 本国越中祖九兵衛越中松倉城主椎名右衛門大夫甥神前和泉子椎名家老小幡九助養子ト成…」という文から,小幡氏と椎名氏の縁がわかります。小幡家の菩提寺は金沢市小立野の経王寺ですので,そちらを尋ねられると良いと思います。

投稿: fukunan | 2020.06.21 02:15

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