4月7日はアユタヤ王朝滅亡の日
4月7日はアユタヤ王朝滅亡の日である。正確には翌日までビルマ兵による殺戮や略奪が続いたので4月8日を滅亡の日としてもおかしくはない。
1765年,ビルマ・コンバウン王朝のシンビューシン王はアユタヤから見て北(ランナー),北西・西(テナセリム)から侵攻を開始した。第二次泰緬戦争の始まりである。このころのビルマ軍は強力だった。シャム(タイ)各地で抵抗があったものの,1766年には王都アユタヤを包囲した。
ビルマ軍の侵攻ルート(Wikipedia)
1767年3月下旬,ビルマ軍はアユタヤの城壁の下にトンネルを掘った。そして,4月7日午後4時,いくつかのトンネルを爆破し,城壁を倒壊させた。日暮れまでにビルマ軍はアユタヤ市内に突入し,シャムの守備兵を駆逐した。そのあとは殺戮と略奪の嵐である。王宮は破壊され,シャム王は遺体で発見された。数万のタイ人が捕虜としてビルマに連れ去れた。アユタヤ朝400年の歴史はここに幕を閉じることになる。
このあたりの話はWikipedia英語版の第二次泰緬戦争の記事の"Sack of the city"の項が詳しい。
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ところが,ビルマによる支配はそう長く続かなかった。シャム(タイ)はすぐに回復する。救国の英雄,タークシン(中国系タイ人。中国名は鄭信。元首相のタクシンとは綴りが違う)が登場する。
タークシンはアユタヤ王朝の将軍である。アユタヤ陥落後,その下流にあるトンブリーに新王朝を樹立。国内に乱立した諸勢力を鎮圧後,アユタヤ王朝の旧領や属国を回復した。
タークシン王は晩年,精神錯乱をきたし,家臣によるクーデターで捉えられる。そして,民衆の支持を受けたかつての右腕,チャオプラヤー・マハーカサット・スック将軍に処刑された。
このチャオプラヤー・マハーカサット・スック将軍こそ,後にラーマ1世となる人物である。ラーマ1世が興したチャクリー王朝は今も続いている。
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ビルマによるアユタヤ王朝の滅亡は,現在のビルマ(ミャンマー)とタイの関係に強い影響を及ぼしている。タイの歴史の教育では必ず,第二次泰緬戦争とアユタヤ陥落が取り上げられ,タイ人のビルマ(ミャンマー)人に対するネガティブな感情のベースとなっている。
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