孔子の精神の正当な継承者は荘子
先日,省エネルギー関連の会議があった。その席で某企業からの委員が「省エネ」の「省」の字の意義について白川静の説を引いて論述した。ことほどさように白川静の学説は人々の間に浸透している。
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先日も紹介した白川静の『孔子伝』だが,やはり孔子に対する認識を一変させてしまうという意味で,たいへんな本である。
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以前の記事でも引用したが,
「孔子は巫女の子であった。父の名も知られぬ庶生子であった」(白川静『孔子伝』56頁)
という話は,本書刊行当時も現在も人々に衝撃を与え続けている。孔子は巫祝の伝統を継ぐ者であるという。
加地伸行が言うように,白川静の『孔子伝』は「従来の<倫理道徳としての,非合理的なものとは無縁な儒教そして孔子>という呪縛」から孔子像を解き放つ画期的な評伝である。
アカデミックな世界では議論が続いているのだろうが,読書人の間では『孔子伝』の説が定説になりつつあるのではないだろうか?
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白川静『孔子伝』が紹介されるときは,上に述べた孔子の出自ばかりが強調されるが,読み進めていくと,中国思想史の枠組みを揺るがしかねない論考が登場し,そちらの方がより衝撃的である。
そもそもの執筆の動機について,白川静は『回思九十年』所収の「私の履歴書」の中でこう語っている:
「儒教はどうして生まれたのか。孔子はどのようにしてそれを組織したのか。儒教がその教条主義にも拘わらず,滅びなかったのはなぜか。それはむしろ儒教の否定者によって,止揚されたからではないか。そのようなテーマを,私は敗戦のときから考え続けてきた。」(白川静「私の履歴書」,平凡社刊『回思九十年』所収)
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この引用文の中で重要なのは「むしろ儒教の否定者によって,止揚された」という部分である。長くなるが,少し論じてみる。
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反ノモスの人,孔子
吉田加奈子が白川静と対談した際の言葉(※『回思九十年』404頁)を借りれば,『孔子伝』で描かれる孔子は,反ノモスでピュシスの立場の人物である。
ノモスというのは法・社会制度であり,慣習と訳すこともある。ピュシスというのは人為が加わっていない,あるがままの状態であり,自然本性と訳すこともある。古代ギリシャでは「ノモス」と「ピュシス」は対立概念である。
反ノモスでピュシスの立場というのはソクラテスの立場であり,『孔子伝』ではしばしば孔子がソクラテスと比して論じられている。
『孔子伝』では孔子をロゴスの人であると言ったり,イデアの人であると言ったりして,読者をやや混乱させる。何故かというと,ストア派の枠組みではロゴスはピュシスとも表現されるのでまあいいが,イデアとピュシスは異なるものだからである。だが,白川静が言いたいことが「孔子は反ノモス」ということであると理解すれば,ロゴスやイデアという言葉で表したかったことが,ピュシスのことであろうと推測できる。そしてまた,ソクラテスと孔子とを並べてみる理由もわかる。
ソクラテスはデルフォイ(デルポイ)の神託をきっかけに,求道者として生涯,問いを発し続けた。孔子もまた後半人生の大半を占める亡命生活の中で,求道者として問いを発し続けた。
孔子(とソクラテス)にとって重要なのは,答えを述べることではなく,問いを発し続けるという求道者としての不断の行為である。
「孔子は最も『固を疾(にく)』〔憲問〕み,教条主義者を度しがたいものとした。」(『孔子伝』170頁)
孔子は自らの求道者としての行為を受け継ぐものとして,弟子の顔回(顔淵)に期待した。しかし,顔回は孔子よりも前に死ぬ。顔回の死を知った孔子は慟哭する:
顔淵死,子曰,噫天喪予,天喪予 (論語・先進編)
顔回が死んだ。先生はおっしゃった。「ああ,天は私を滅ぼした。天は私を滅ぼした」
顔回が死に,孔子が死んだ後,行為者としての伝統は失われ,教団は教条主義に陥った。儒教は,本来の反体制的な姿勢を失い,ノモス的秩序,いわば俗世的秩序を維持するものへと変貌する。その仕上げを行ったのが,孟子であり荀子であると白川静は語る:
「儒教のノモス化は,孟子によって促進され,荀子によって成就された。それはもはや儒家ではない。少なくとも孔子の精神を伝えるものではないと思う。儒教の精神は,孔子の死によってすでに終っている。そして顔回の死によって,その後継を絶たれている。」(『孔子伝』270頁)
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孔子の精神の正当な継承者は荘子
荘子(荘周)は道教の始祖とされ,また,儒教の批判者とされている。
荘子(荘周)は『荘子』の中で,しばしば孔子と顔回とを対論させて教条化した儒教への批判を行っている。儒教側から見れば,孔子の権威を貶める行為である。しかし,上述したように,白川静によれば,儒教の教条化,ノモス化を拒み,主体的な行為によって儒教を超越することを望んでいるのは孔子自身である。
「おそらく荘周は,この孔子の願望を見ぬいていたと思われる。それで,荘周は孔子と顔回の対論という寓話形式を以て,これを実現してみせたのである。」(『孔子伝』215頁)
このように,孔子の精神の正当な継承者を荘子とする説は,実は白川静以前に,郭沫若(Guo Moruo)が唱えたことであるが,白川静もこれに賛同している。
ということで,儒教には大きく2つの流れがある,ということになる。一つは孟子・荀子に受け継がれたノモス化した儒教,もう一つは孔子の精神を受け継いだ,荘周による反ノモス儒教である。
『論語』はこの両派の考え方が反映されていて,全体といては一貫性を欠いたものとなっていることが『孔子伝』では述べられているのだが,その件については別の記事で書きたいと思う。
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コメント
ノモスとピュシスと言われるとカール・シュミットとハイデガーを思い出してしまいますが、しかし、おっしゃる通りこれは古代社会以来の大きな問題であります。
ソクラテスと孔子に、もうひとりイエスを加えてみればどうかと思いを巡らせたりもします。つまりはプラトン、顔回、パウロの近似性・・・
今回のお話とても刺激的でした。それと言うのも、私が柄谷行人の近著「哲学の起源」を最近読んだせいかもしれません。
投稿: 拾伍谷 | 2013.11.12 23:09
『哲学の起源』!
小生は買ったまま本棚に放置しておりました。いよいよ読むべき時が来たかもしれません。
ちなみに,白川静は孔子をイエスとも並べてみています。貴兄が思いを巡らした通りです。白川静は敗戦時,論語と聖書を並べて思索にふけっていたそうです。
投稿: fukunan | 2013.11.13 00:06