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2013.11.23

この世界はいかに生まれしや? インドの場合

前の記事「作る・生む・成る―創世神話における動詞」では次のようなことを述べた: 日本の創世神話は「成る」系の神話であり,そのような思考は,草木が自生・繁茂するような風土/自然環境に由来する,と…。

風土が思考の枠組みに与える影響について述べるのは和辻以来,日本人ばかりかと思っていたが,そうでもないようである。

オランダの生んだインド学の泰斗 J.ゴンダ (Jan Gonda, 1905-91)は,『インド思想史』の中で,ギリシャ人とインド人とを比較しながらこう述べている:

ギリシャ人は,不毛の土地,海に周囲を取り囲まれ,しかも周辺を取り巻く古代文明の傘下にある島国に移住して,この新たな居住地で高い文化に接し,勢い,あくせくした慌しい生活,交易,旅行に駆り立てられ,また,多岐にわたる国際間の交流に巻き込まれた。(ゴンダ『インド思想史』,10頁)
ギリシャ人は広く世界を見渡し,新奇なものに心を開くことに慣れ,その洞察と理解力は研ぎ澄まされた。また生得の知覚と天与の理性が,ただちに行為の重要な規範となった。宗教は何ら権威たるべき福音を与えなかった。こうしてギリシャ人には,人間が万物の尺度となったのである。

インド人は原生林に閉じ籠り,自分を取り巻く優勢な自然に捕われの身となっていた。古代文化の段階に特有な自然との連帯感が,根絶やされるより,むしろ大いに育まれた。自分と周囲との境界は明確には感じられなかった。インド人もギリシャ人と同様,心を自然と自然の諸問題に向けるが,しかし,インドでは,人間が自然に対立して独自の地歩を占めることはなかったのである。(ゴンダ『インド思想史』,11頁)

インドと一口に言ってもヒマラヤやヒンドゥークシュのような山岳地帯があり,タール砂漠があり,自然環境は多様である。だが,紀元前6正規頃に興亡を繰り広げていた十六大国が位置したガンジス川流域についていえば,緑豊かな肥沃な大地が広がっている。所によっては日本以上に草木が繁茂する大地で生まれた創世神話は「成る」系の神話ではなかろうかと期待されるのだが,果たしてそうだろうか?

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ゴンダ『インド思想史』「第二章 ブラーフマナの思弁」では古代インド人の考えた「万物原理」が紹介されている。万物…人間ももちろんのこと,神々も含めて全てのものはどのようにして生まれたのか? インドの詩聖たちは瞑想によってその究極原理にたどり着いた。有も無もない時と場所に,根本原因となる「唯一」のものが発芽したのだと。タパス(tapas)―熱によって。

この「唯一」のものは人格化されてプラジャーパティ(Prajapati, 創造主)とされたり,万物が有する潜在力―梵とされたりするわけだが,ブラーフマナでは次のように意見が分かれている:

太初の「無」(asat)が「有」(sat)たらんと欲し,この欲望が梵であった。次いでタパスにより創造活動が始まる。タパスによって煙が生じ,さらにタパスによって火が,次いで光が生じ,最後に,同じく万能のタパスによって,自己自身から「有」を創造するプラジャーパティが生じた。

この考えのかたわら,先行すべき「無」を欠く「自生の梵」(brahman svayambhu)の思想が存している。「太初において,宇宙は実に梵なりき。(すなわち,梵=宇宙)そは諸神を創出してのち,これらの世界に分置せり。……天界にはスールヤ (Surya,太陽神)を,など。」(ゴンダ『インド思想史』,43~44頁)
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小生から見れば,前者,「無」が「有」たらんとして創造活動が始まったという創世神話は,「成る」系の神話である。もちろん,プラジャーパティ登場以降は「作る」という活動によって,万物が作られていくわけであるが,プラジャーパティ自身は自立的に「成る」ことによって現れている。

ということで,緑豊かな風土では「成る」系神話が成立するような気がするのだが,いかがなものか?

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