不幸なヴァンダル族
vandalismという言葉がある。乱暴狼藉のことだが,とくに文化芸術への破壊行為を指すことが多い。
5世紀半ば,ローマ市を襲い,略奪行為を働いたゲルマン系(※実は違うという説が有力であり,別記事で述べる)のヴァンダル族 (Vandal)に由来する言葉である。
もっとも,ローマ市を襲ったのはヴァンダル族に限らないし,他のローマ帝国の都市もいろいろな外敵に襲われている。なのになぜ,ヴァンダル族だけが悪者のようになっているかというと,ヴァンダル族がローマ市やカルタゴ市を襲った時に,それを詳細に記録した文化人がいたためである。
さて,そのヴァンダル族の歴史を簡潔にまとめた本がある:
松谷健二『ヴァンダル興亡史 地中海制覇の夢』(中公文庫 BIBLIO)
ヴァンダル興亡史 地中海制覇の夢 (中公文庫BIBLIO) 松谷健二 中央公論新社 2010-03-07 売り上げランキング : 3077 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
松谷健二は本来,翻訳家であって,小生にとってはパウル・カレル『バルバロッサ作戦』(学研M文庫),同じくパウル・カレル『焦土作戦』(学研M文庫),あと「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズの訳者というイメージが強い。
だが,翻訳以外の著作もあり,今回紹介する『ヴァンダル興亡史』とともに『カルタゴ興亡史』,『東ゴート興亡史』など,「興亡史」三部作を執筆している。
◆ ◆ ◆
さて,『ヴァンダル興亡史』の話に移ろう。
小生にとっては一気には読めない本である。ローマ人やゴート人やヴァンダル人の名前が次々に登場するし,とくにローマ皇帝に関しては西と東に皇帝が併存しているし,あっという間に入れ替わるし・・・。ということで,この時代のヨーロッパ史に詳しくないと頭の中が大混乱に陥る。
だが,ヴァンダル族の指導者であるゲイゼリック(ガイセリック)とその子孫の言動さえ押さえておけば,なんとか読み切れる。
ヴァンダル史はゲイゼリック以前,ゲイゼリック時代,ゲイゼリック以後の3つに分かれると思ってしまえばよい。
◆ ◆ ◆
<ゲイゼリック以前>
ゲイゼリック以前は定住と移動の繰り返しの歴史である。
ストラボン(古代ローマのギリシア系地理学者,BC63頃-BC23頃)によれば,ヴァンダル族はオーデル川中流域,シュレージエン地方に住んでいた。シュレージエン(シレジア)という名称自体,ヴァンダル族の一支族,シリング(シリンジイ,Silingii)に由来するという。
ヴァンダル族にはもう一つ別の支族があって,アスディング(ハスディンジイ, Hasdingii)と言った。この人たちは2世紀ごろからローマ帝国の承認を得てハンガリーとかルーマニア(ダキア)に住んでいた。
375年,東方からフン族が襲来し,いわゆるゲルマン民族の大移動が始まる。今のウクライナのあたり(カルパチア山脈からドン川に至る範囲)に住んでいたゴート族が,フン族から逃れるため西へ南へと移動を始めたのである。
実際にはゲルマン民族に分類される諸勢力は,「ゲルマン民族の大移動」以前から押し合いへし合い,あちこちを移動していて,時としてローマ帝国と衝突したり,服従したりしていた。いわば「玉突き衝突」(32頁)。
しかし,フン族の襲来は決定打だったようで,これによってゴート族だけでなく,ゴート族に押し出される形で,ゲルマン民族諸勢力が移動を始めた。
5世紀ごろの民族大移動の様子をまとめた図がWikipediaに掲載されているので,ここに引用する:
青い線がヴァンダル族の移動経路を示している。
ハンガリー・ルーマニアのあたりにいたアスディング系ヴァンダル族は東方から移動してきたゴート族と衝突した。またフン族の襲来もあった。当時のアスディング系ヴァンダル族の王ゴディギゼルは,アスディング系ヴァンダル族,および同盟関係にあったアラン(アラニ)族(遊牧騎馬民族)を率いて長い旅に出ることとなった。これが400年頃の話。
その後,アスディング系ヴァンダル族はシリング系ヴァンダル族と合流し,アラン族と一緒に西に行ったり南に行ったりと彷徨いながら西ヨーロッパを横切り,スペインに到着する。これが410年頃の話である。
ヴァンダル族は今のスペインのアンダルシア地方を領有した。そもそもアンダルシアという名称は古くはヴァンダルシア(Vandalusia)であり,ヴァンダル族に由来するものだという。
ヴァンダル族にとってスペインは安住の地ではなかった。他の勢力,スエビ族,西ゴート族との間でスペイン領有を巡って争いが続いていた。
ここで登場するのが,ゴディギゼルの子,ゲイゼリックである。
◆ ◆ ◆
<ゲイゼリック時代>
ゲイゼリックはゴディギゼルの庶子で,母は非ゲルマン系の奴隷女だったという。また,若い頃の落馬事故のせいで足が不自由だったという。足が不自由という話,場所も時代も違うが,ティムールを思い起こさせる。
さて,ゲイゼリックは一か八かの賭けに出た。他のゲルマン系諸勢力との争いを続けていてはヴァンダル族は衰亡する一方である。海を渡り,豊かな北アフリカを目指すことにした。
429年の5月か6月,ヴァンダル族とアラニ族,総勢8万人がスペインのタリファからモロッコのタンジールへと渡った。そして,渡海の疲れから回復するや否や,ヴァンダル族とアラニ族はローマ帝国の守備隊を蹴散らしながら,ひたすら東進し,430年の夏にはヒッポ・レギウス(アンナーバ)に至った。
当時,ヒッポ・レギウスにはカトリックの指導者の一人,聖アウグスティヌスがいた。ヴァンダル族はカトリックと対立するアリウス派を支持していた。異端のアリウス派の信徒であるヴァンダル族に包囲されたまま,聖アウグスティヌスは死去する。
ヴァンダル族の蛮行がことさらクローズアップされ,"vandalism"という言葉が誕生した原因は,このヒッポ・レギウス包囲戦にある。
「ヴァンダル族にとって運の悪いことには,このアウグスティヌスにポシディウスという伝記作家がいて,ヴァンダル族の蛮行をこと細かに後世につたえた。<中略> ヴァンダル族だけが特別に史上まれに見るほど暴虐無頼だったのではない。多くの似たような例のひとつにすぎなかったのだ。<中略>たまたま知識人の多い地方々々であばれたものだから,のちのちまで目立つようになってしまったのである」(61~62頁)
ヒッポ・レギウスは約1年後にヴァンダル族のものとなる。ゲイゼリックはローマの名将アスパル(じつはゲルマン系かアラニ系)と闘いつつ,秘密交渉を重ね,ヴァンダルによる北アフリカ各地の領有を認めさせることに成功する。そして,439年10月には地中海における最大都市のひとつカルタゴを陥落させ,北アフリカの覇権を確立した。これを以てヴァンダル王国の成立と見ることができる。
ゲイゼリックは強力な海軍を作り上げ,西地中海を荒らしまわった。シチリア島,サルディニア島,コルシカ島等々はヴァンダル王国によって征服された。
455年にはローマ帝国内の政争に乗じてローマを占領,略奪を働いた。これが本記事冒頭の話である。
このとき教皇レオ1世は建物の破壊と住民の殺戮をしないよう,ゲイゼリックに懇願した。ゲイゼリックは教皇の願いを聞き入れ,殺戮と破壊を禁じた。ただし,それは殺戮と破壊を無意味と思うからであって,略奪をしなかったわけではない。
「掠奪をしないとは約束していない。ゲイゼリックは十四日間とくぎって部下たちに組織的掠奪をさせた。ローマ市を簒奪者たる皇帝から救った報酬というのが名目となる。合法的戦利品といってもかまわない。 <中略> 金目になりそうなものは残らず冷静に没収され <中略> 船に積み込まれた。むろん,掠奪の対象は物品だけではない。富裕階級の家族も連れさられた。人質である。その身代金は結局はローマの国庫から出るはずだった。」(84頁)
ローマ帝国にとってヴァンダル王国によるローマ占領は相当なショックだったようである。一方で,ヴァンダル王国にとっては自信をつけさせることとなった。
東西両ローマ皇帝はヴァンダル王国を撃つべく大艦隊を派遣したが,ボン岬の戦いで大敗。
当時,ゲイゼリックは70歳ぐらい。当時としては相当な高齢だったが,軍事・外交で彼に対抗できるものはいなかった。
◆ ◆ ◆
<ゲイゼリック以後>
477年,ゲイゼリックが死去した。80歳後半,90歳近くである。一代のカリスマを失った後,ヴァンダル王国は衰え始める。
そのころ,東ローマ帝国に強力な皇帝が現れた。ユスティニアヌス帝である。
↑ユスティニアヌス帝(source: wikipedia)
ユスティニアヌス帝はヴァンダル王国の宮廷内の争いに乗じ,ヴァンダル王国を征服することにした。ヴァンダル戦争の開始である。ユスティニアヌス帝は名将ベリサリウスを送り込んだ。短期間の戦いの後,ヴァンダル王国は滅亡し,北アフリカはローマ帝国の下に戻った。
このヴァンダル王国の滅亡過程については本書『ヴァンダル興亡史』のページ数の三分の一が費やされているが,是非読んでくださいということで省略。
◆ ◆ ◆
この時代,ローマ帝国側の視点で歴史物語が描かれることが多く,周辺民族の視点で描かれる物語は少ない。そういう意味で『ヴァンダル興亡史』は貴重な書籍である。
松谷健二が繰り返し述べていることだが,ヴァンダル族による略奪を詳細に記録した知識人がいたことがヴァンダル族の不幸である。ローマ市略奪にしてもヴァンダル族によるものより45年前の西ゴート族アラリック王によるものの方がよっぽどひどかったようである。
ヴァンダル族は"vandalism"という言葉の語源となり,乱暴狼藉を働く人々のようなイメージを植え付けられてしまった。ゴート族なんかは本来無関係であるにもかかわらず"Gothic"という中世の建築様式・芸術様式に名前をとどめているのに対し。
| 固定リンク
« 世界初の浮体式潮流・風力ハイブリッド発電 (skwid),水車紛失により落成式延期 | トップページ | 「ごちそうさん」が「あまちゃん」を越えたというのは本当か?→0.3%の視聴率の差に意味はあるか? »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 小池正就『中国のデジタルイノベーション』を読む(2025.01.06)
- 紀蔚然『台北プライベートアイ』を読む(2024.09.20)
- 『ワープする宇宙』|松岡正剛に導かれて読んだ本(2024.08.23)
- Azureの勉強をする本(2024.07.11)
- 『<学知史>から近現代を問い直す』所収の「オカルト史研究」を読む(2024.05.23)
コメント
バレーシューズ ミズノ
投稿: ミズノサッカースパイク イグニタス | 2013.11.11 17:54