« 中川曠人『相聞 折口信夫のおもかげびと』を読む | トップページ | 前代未聞のうるし漫画『青春うるはし!うるし部』 »

2013.09.30

釋迢空(折口信夫)『海やまのあひだ』は誰のために編まれたのか

釋迢空(折口信夫)の第一歌集『海やまのあひだ』の冒頭は次のように詞書を添えた一首から始まる:

大正十四年
この集を,まづ与へむと思ふ子あるに,

かの子らや われに知られぬ妻とりて,生きのひそけさに わびつゝをゐむ

「この集を,まづ与へむと思ふ子」とは,折口のもとを離れ,鹿児島に去り,妻をめとった教え子・伊勢清志のことである,というのが通常の解釈である。

「かの子ら」の「」というのがひっかかるが,富岡多惠子『釋迢空ノート』(岩波現代文庫)の「ノート3 恋」で引いた岡野弘彦の意見によれば,「ら」というのは複数の「ら」ではなく,愛称の接尾語ということである。

釋迢空ノート (岩波現代文庫)釋迢空ノート (岩波現代文庫)
富岡 多惠子

岩波書店 2006-07-14
売り上げランキング : 250619

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

しかし,中川曠人(上原曠人)『相聞 折口信夫のおもかげびと』を一読してしまった後では,そう簡単に考えることができなくなる。

中川曠人の母であり,折口信夫の許嫁だった上野ひでもまた,折口と別れ,折口の知らない夫と一緒になった人物だからである。「妻」と「夫」では全然違うではないか,という意見はごもっともだが,まあ聞いてください。

相聞―折口信夫のおもかげびと相聞―折口信夫のおもかげびと
中川 曠人

花曜社 1985-04
売り上げランキング : 2001176

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


まず,「」について再確認する。

大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波 古語辞典』を引くと,接尾語「ら」について,つぎのようなことが書いてある。

(3) 複数を示す。尊敬を含まず,人を見下げたり,卑下したりする感じで使うことが多い。 (4) 事物を複数形で表現して婉曲にいう。

古語辞典の定義が絶対的なものとは思わないが,『岩波 古語辞典』の語義からは「かの子らや」の「ら」に愛称という意味合いが感じられない。むしろ語義(4)の婉曲表現としての「ら」である可能性を捨てがたく思う。

ある特定の人物を指しているようで,複数の人間たちを指しているようでもある,ぼやーっとした表現として「かの子らや」と言ったのではないかというのが小生の解釈である。

『海やまのあひだ』所収の大正八年・鹿児島の歌:

汝が心そむけるを知る。山路ゆき いきどほろしくして もの言ひがたし
叱りつゝ もの言ふ夜はの牀のうちに,こたへせぬ子を あやぶみにけり
わが黙(もだ)す心を知れり。燈のしたに ひたうつむきて,身じろかぬ汝(なれ)は

などに見える「汝」や「こたへせぬ子」は間違いなく,伊勢清志を指している。

しかし,

大正十三年・気多川の歌:

ふるき人 みなから我をそむきけむ 身のさびしさよ。むぎうらし鳴く

を読むと,「みなから」=「皆ながら」とはどういうことかと言う疑問が生じる。中川曠人(上原曠人)が述べているように,

「伊勢清志一人では<みながら我を……>とは言えないし,また教え子を<ふるき人・古い知己>と呼ぶのもふさわしくない。」(『相聞 折口信夫のおもかげびと』180頁)

富岡多惠子の解釈とも中川曠人の解釈とも一致しないが,小生としては,一つの折衷案としての解釈を示したい。

それは,

「かの子ら」とか「ふるき人」とか「汝」とか,釋迢空(折口信夫)が歌の中で思い浮かべている相手は,――ときによっては特定の人物として明確な像を結ぶこともあるが――折口と親しくしてきたにもかかわらず折口を裏切った(と折口は思っている)人々を重ね合わせた総体的・抽象的な人格なのではないか,

という解釈である。

そうすると,妻子を持っていた藤無染もまた,この総体的・抽象的人物に重ね合わせることができるだろうし,妻を持つことを家庭を持つという上位概念に置き換えれば,妻ではなく夫を持った上野ひでもまた,この総体的・抽象的人物の中に抱合される。


で,『海やまのあひだ』は誰のために編まれたのか,という疑問に対する答えだが,ここでは,折口のもとを去って行った者すべてのために,ということにしておきたいと思う。


……それにしても,家庭環境,人間関係をここまで穿鑿される折口信夫とはどういう人物なのだろうか。柳田國男や南方熊楠ではここまで追及されることは無い。

|

« 中川曠人『相聞 折口信夫のおもかげびと』を読む | トップページ | 前代未聞のうるし漫画『青春うるはし!うるし部』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

9月は全日更新ですか、どうもお疲れ様です。

折口信夫。様々な伝説に彩られたパーソナリティもさることながら、私はなによりその文章に魅了されております(半面、釋迢空の歌に関しては不案内・・)。「死者の書」「妣が国へ・常世へ」は無論「愛護若」や「身毒丸」など久々に読むとあまりの濃厚さにクラクラする思いがしますが一度中へ入ってしまえば次から次へ読み進めたくなるあの文章、散文の隙間に詩的言語がびっしり根を張っているような文章それ自体が、正直に申し上げて意味するところは半分も理解できずとも、圧倒的な魅力に満ちているように感ぜられるのです。

投稿: 拾伍谷 | 2013.09.30 22:40

10月からはやたら忙しいので,気の向いた日だけ更新しようと思っております。

折口信夫は研究者が束になってもかなわないほど著作を残しているので大変です。そのどれもが密度の濃い,ねちっこい文章ですしね。

投稿: fukunan | 2013.10.01 01:18

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 釋迢空(折口信夫)『海やまのあひだ』は誰のために編まれたのか:

« 中川曠人『相聞 折口信夫のおもかげびと』を読む | トップページ | 前代未聞のうるし漫画『青春うるはし!うるし部』 »