【生誕100年】桂ゆき,その60年におよぶ画業
下関市立美術館で,桂ゆきの画業60年を振り返る展覧会をやっていた。8月4日は最終日だったので,あわててツマと共に長府まで行ってきた。
桂ゆき(1913年10月10日~1991年2月5日)については知識ゼロだった。ツマに教えられて,今回の展覧会を知ったのである。
見てきた感想・・・魂が揺さぶられる思いがした。
戯画的な,おどけた感じの絵に見えるものが多いが,自らの作品への対峙の仕方がいいと思った。
感覚から直截的に作品を制作するのではなく,自らの作品を見直しながら作品を練り上げ仕上げていく姿勢が良い。
今回の展覧会のカタログ『桂ゆき ある寓話』の解説記事「桂ゆきの眼差し―その批評家精神をめぐって」(濱本聰・下関市立美術館館長)に引用されている桂ゆきの発言:
「たしかな近代人なら,批評家精神はかならず持っているはずで,(中略)感覚だけを頼りに絵を描かない態度があるはずではないでしょうか。」(カタログ17ページ)
同解説記事は桂ゆきの批評家精神を簡潔にまとめている:
桂ゆきの批評精神は,真っ向からの批評という方法や深刻そうな表情を表すことはなく,いつも風刺や茶化しのような,見るものの視点を既定の位置からずらす方法で発揮された。自作や自分自身も含め,常に対象から少し距離を置き,醒めた視線で見直すのがこの画家の基本的な態度だった。コラージュという方法,そのコラージュを描きなおすこと,さらにはコラージュ風に描くことなども,表現そのものを観察対象にするための必然的な方法だったといえるだろう。(濱本聰・下関市立美術館館長,カタログ18ページ)
先に述べておくべきだったが,桂ゆきの作品群は,細密描写,コラージュ,戯画的表現の3本柱で支えられている。
桂ゆきのコラージュ作品はそれ自体,素晴らしい出来なのだが,それで終わらないのがすごいところである。そのコラージュ作品を油彩で再表現してみる。そうすることによって作成作業自体や作品自体がさらに相対化されるわけである。
実例としてはカタログナンバー5-1-3,1978年の作品がある。たて116.5cm×よこ91.0cmの板に茶色いコルク状の,ちぎった紙の小片がびっしりと張り付けられている作品である。ただし作品の中央からやや下,横長の部分だけ,油絵で紙の小片の細密描写となってしている。そしてその油彩部分の中央に白い卵状の物体が描かれている。
昔の作品に新たに手を加えてしまうというのもすごいところである。1964年,花田清輝の『俳優修業』の装丁のために描かれた絵がある(カタログナンバー4-2-M-5)。石垣を描いたかのような青い絵である。桂ゆきは1982年にその絵の向きを変え,目玉を加筆した。
絶えず自作に立ち向かい,あらたな表現を加えることで,以前の作品と以前の制作活動を相対化してしまう,螺旋運動のような制作活動。これはなかなかすごいことですよ。
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