オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』を読んだ件:「進歩思想への幻滅」を乗り越える
歴代の為政者から最も恐れられ,マルクスも一目置いた革命家,オーギュスト・ブランキによる著作である。
革命家が,なぜ獄中で天体や永遠について思考を巡らせたのか?
天体による永遠 (岩波文庫) オーギュスト・ブランキ 浜本 正文 岩波書店 2012-10-17 売り上げランキング : 205067 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
その謎について,訳者浜本正文は直接答えず,読者に議論を委ねている。しかし,これが書かれた状況については,解説の中で詳述している。
1871年3月17日,パリ・コミューン勃発の一日前,老いたりとはいえ最も危険な革命家と目されたブランキは逮捕され,トーロー要塞(Chateau du Taureau)に幽閉された。
↑トーロー要塞(Wikimediaより)
トーロー要塞はブルターニュ半島の先端近くの岩礁の上に築かれた要塞だった。ブランキが幽閉された土牢は,海に面していたものの,海側の窓は脱走防止のため塗りつぶされていた。陽光は全く差し込まず,鉄格子のはまった窓と上部の明り取りを通して,中庭側の光が漏れてくるだけだった。ブランキは土牢の中で,寒さと湿気と騒音に襲われながら,この論文を完成させた。
物理的にも精神的にも出口のない状況で,ブランキが到達したのは「永劫回帰の憂鬱」だった。
◆ ◆ ◆
ブランキの永劫回帰論
『天体による永遠』の中で,ブランキは次のように「永劫回帰論」を展開している:
- 宇宙は時間的・空間的に無限であり,無限の天体で満たされている
- ところで物質を構成している元素の種類はたかだか100程度である
- 元素の種類が有限である以上,元素の組み合わせにすぎない物質もまた有限の種類しか存在しえない
- 天体もまた物質で構成されており,有限の種類しか存在しえない(言い方を変えると「オリジナル」の天体の数は{莫大な数に上るとはいえ}有限である)
- 有限の数の「オリジナル」の天体によって,時間的・空間的に無限の宇宙を満たすことはできない。満たそうとすれば,「オリジナル」の天体のコピーを繰り返す必要がある。つまり,宇宙には瓜二つの天体が現在のみならず過去・未来にわたって無数に存在する
- ということは我々の地球と瓜二つの天体が現在・過去・未来にわたって無数に存在するということである
- それら瓜二つの地球にも我々と瓜二つの人間たちが存在する
- 我々と瓜二つであるとはいえ,それらの人間たちは各時点で我々とは異なった意思決定をして別の道を歩んでいく可能性はある
- しかし,別の運命を歩んでいくとはいっても,その意思決定の分岐の組み合わせもまた有限である
- 無数に存在する地球と瓜二つの天体の中には,我々と同じ運命を歩む人間たちが存在する
- つまり,我々が行っていることは,宇宙のどこかで,そして過去から未来にわたって何回も繰り返されていることなのである
- ようするに「永劫回帰」
ブランキは自分の境遇もまた永遠に繰り返されるものであるということを述べている:
「トーロー要塞の土牢の中で今私が書いていることを,同じテーブルに向かい,同じペンを持ち,同じ服を着て,今と全く同じ状況の中で,かつて私は書いたのであり,未来永劫に書くであろう。私以外の人間についても同様である」(132頁)
◆ ◆ ◆
「永劫回帰」から進歩思想に対する幻滅へ
ブランキは天体に関する考察からスタートして,「永劫回帰」という結論を得た。ニーチェに先立つこと10年。
「永劫回帰」ということは存在の永遠性を保証する。ブランキはこれに満足しただろうか?
否。
「ところが,ここに一つ重大な欠陥が現れる。進歩がないということだ」(133ページ)
革命家にとって進歩の否定,愚行の反復,というのは耐え難いことである。
こうして『天体による永遠』における考察は,進歩思想に対する幻滅へと至る。
このあたり,FACTA発行人阿部重夫氏が「オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評」(阿部重夫発行人ブログ「最後から2番目の真実」,2012年11月7日)で語っている通りである。
◆ ◆ ◆
「永劫回帰の憂鬱」を乗り越えるために
上述のブログで阿部氏はこの本のことを「あらゆる進歩の思想に幻滅した人向きかもしれない」と述べる。
まさにその通りだろう。しかし,どのような意味で?
阿部氏は語っていないが,それは「永劫回帰の憂鬱」=「進歩思想への幻滅」を超越するという意味で,「あらゆる進歩の思想に幻滅した人向き」の本であるということである。
ブランキ『天体による永遠』はブランキ自身が記述した本文だけではなく,訳者・浜本正文による詳細な解説を踏まえて理解しなくてはならない。
同解説によれば,ブランキは『天体による永遠』を書き記すよりもはるかに前からペシミストだった(1850年のプルードンの書簡による)。
ペシミストであるブランキは「明日は今日よりも良くなる筈」,「明日は今日よりも良くなるべき」というような進歩思想を採らない。ユートピア思想やプログラム化された科学的社会主義思想には与しない。
ブランキは予定された(つまり,過去の繰り返しに過ぎない)「未来」ではなく,「今」に全てを傾注する。『天体による永遠』の解説文中のベンヤミンの言葉を孫引きすれば,ブランキの行動の前提となるのは,
「けっして進歩への信仰ではなく,さしあたってはただ現在の不正を一掃する決意だけである」(187~188ページ)
ブランキ『天体による永遠』とその解説を踏まえれば,「永劫回帰の憂鬱」=「進歩思想への幻滅」を乗り越えるために,何を考えれば良いのかは明らかである。
あらゆる進歩の思想に幻滅した人は,幻滅で終わるのではなく,今ある不正に怒りを持ち,それに立ち向かう決意を固めるしかない。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 紀蔚然『台北プライベートアイ』を読む(2024.09.20)
- 『ワープする宇宙』|松岡正剛に導かれて読んだ本(2024.08.23)
- Azureの勉強をする本(2024.07.11)
- 『<学知史>から近現代を問い直す』所収の「オカルト史研究」を読む(2024.05.23)
- トマス・リード『人間の知的能力に関する試論』を読む(2024.05.22)
コメント
ブランキの宇宙論は途方もなく美しいものです。
若き日の彼が唱えた、少数精鋭の部隊による敵中枢への電撃的攻撃による体制転覆というプランはどこかロマンティックな冒険者を思わせ、エリート主義的と言いますか、もっと言ってしまえば貴族的ですらあるように感じられたものでした。
そこには正義が即ち美であるかのようなスタイルがあったのではないか・・・三銃士や怪盗紳士などが思い浮かんでしまいますが、大衆動員によるゼネストで権力奪取を目指したソレルとは好対照ですね。
対照的と言えば青年ブランキの革命論と晩年のブランキの宇宙論もまたしかりで、炎の中で死を厭わず直接行動に出た青年の瞬間的な熱く滾る思想と、年老いて劣悪な環境の中で書き連ねられた老人の冷やかで茫漠たる広がりを持った思想。
あまりに対照的ですが、それが故に両者に流れる美的感性の鮮烈さには今更ながら圧倒されますし、対照的と見える思想に通底する何物かが感じられたりもするのです。
投稿: 拾伍谷 | 2013.04.12 03:36