新春企画・『中国は東アジアをどう変えるか』を読む (後編:言語への着目)
前編:『海の帝国』から12年 何か変わったか?
中編:アングロ・チャイニーズとは何か?
後編:言語への着目
と,三回にわたって,白石隆,ハウ・カロライン『中国は東アジアをどう変えるか』(中公新書2172,2012年)を読み解いているわけである。今回がラスト。「後編:言語への着目」というテーマで読み解いてみたい。
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白石隆は言語の習得が社会集団に与える影響について深く検討する。これは前著『海の帝国』でも本書『中国は東アジアをどう変えるか』でも同じである。「言語への着目」ということが,白石隆の研究手法の大きな特徴である。
ある言語の習得というのは,その言語の背景にある価値観・生活様式をも習得することである。たとえば,イヌイットの言語では,雪を表す言葉は一つではなく,雪質に応じていくつも存在する。ということはイヌイットの言語を習得することはイヌイットの雪に対する認識構造を受け入れるということである。つまり,言語習得は社会集団に価値観の変容をもたらすわけである。白石隆はそのことを重視する。
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前著『海の帝国』第5章「文明化の論理」では,西欧の植民地支配によって東南アジアの住民の間に近代的自我意識が植え付けられたプロセスが語られている。そのことについてはすでに本ブログで記事を書いたが,改めてここでも取り上げる。
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インドネシアがオランダ領だったころ,ジャワ人の上流階級にカルティニという若い女性がいた。彼女はオランダ語教育を受け、西欧的なものの考え方を身につけ、自己の中に「わたし」という自我意識を醸成した。
カルティニはオランダ語の一人称"ik"を学ぶことによって,近代的な意識を獲得するというショッキングな体験を得たのだが,これを民族教育運動の指導者であるスワルディがムラユ語(現インドネシア語)の一人称"saya"に訳した時,カルティニの受けたショックはインドネシア全土に広がった。つまり,今,インドネシア人と言われる人々の間に,近代的なものの考え方を広めることとなったのである。
オランダ語の一人称"ik"からムラユ語の一人称"saya"への翻訳は「もしわたしがオランダ人であったならば」,「もしわたしがオランダ東インド総督であったならば」という政治的な問いを生み出し,やがて独立運動へとつながっていく(白石隆の議論では,"saya"という言葉の漂流はやがて「警察国家」の成立へと結びついていくのだが,ここではその話は省略)。
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本書『中国は東アジアをどう変えるか』では言語について2つの話題が登場する。
一つは言うまでもなく,「アングロ・チャイニーズ」に関する話題である。
すでに別記事で述べたように,タイ,マレーシア,インドネシアといった国々で生まれ育った,彼ら中国人の子孫は,英語を習得するとともに,アングロ・サクソン的(英米的)な思考様式とビジネスマナーを身に着けている。
アングロ・チャイニーズは英語の習得を経て,アメリカ人と価値観を共有できるようになった人々なのである。
もう一つは,はるか昔の中国を中心とする朝貢貿易体制に関する話題である。
朝貢貿易というのは,中国語(漢語)による貿易体制であり,中国語の背景にある中華思想の受け入れが前提となる。しかし,その言語秩序を受け入れない場合,たとえば,徳川将軍家が「日本国王」ではなく「日本国大君」を名乗ったときには,朝貢貿易体制は破綻する。
英語が英米人だけのものではなくなり,国際的な標準語となっている今,そして,アングロ・チャイニーズにとっては母語となっている今,中国語がアジアにおける標準語となる可能性はほとんどない。まして,中国の台頭をきっかけに21世紀版の朝貢貿易体制が誕生する可能性は全くない…というのが本書の結論の一つである。
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結局,「中国の台頭」とはいっても国際標準語が英語であり,また国内はともかく,国際的な舞台に移ると,アングロ・サクソン的な価値観に迎合しなくてはいけないというのが実情である以上,中国もまたそうしたルールに従わなくてはならないだろう,というのが本書を読んでの感想である。
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