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2012.11.24

タル・ベーラ監督『ニーチェの馬』を見てきた件

YCAMに行ってツマとともに『ニーチェの馬 (The Turin Horse)』を見てきた。

ハンガリーのタル・ベーラ(Tarr Bela)監督による作品。第61回ベルリン国際映画祭銀熊賞・国際批評家連盟賞受賞。

やつれた馬と,老境に差し掛かった農夫と,その娘が荒野に住んでいる。彼らは石造りの家に閉じこもり,いつ終わるとも知れない暴風をしのいでいる。そんな彼らの生活を6日間にわたって克明に描いた映画である……と書くと,ドキュメンタリーのようだが,世界の終わりに至る6日間を描いた作品と言った方がよいかもしれない。

タイトルともなっている「ニーチェの馬」だが,これは1889年,トリノでニーチェが鞭打たれた馬車馬に駆け寄り,涙を流しながらその首をかき抱き,そして発狂したという逸話を指している。

タル・ベーラはその逸話にインスパイアされ,この映画を作成した。本映画の原題のTurinとはピエモンテ語あるいは英語でトリノのことである。

本映画における暴風の描写は圧倒的で美しさすら感じる。そして徹底的に削り落とされたセリフと演出は観客に緊張感を強いる。

Turinhorse

暴風の下,娘は朝早くに井戸に行き,水をくむ。そして右手が不自由な父の着替えを手伝う。この家では朝食は無く,寒さしのぎに焼酎(パーリンカ)を娘は一杯,父は二杯飲むだけである。父娘で馬の世話をした後,家に戻る。唯一の食事は夕方,ゆでたジャガイモを一人一つずつ食べることだけである。

こんな生活が繰り返されるのだが,毎日少しずつ変化が起こる。

一日目の晩,長年聞こえていた木喰い虫の音が聞こえなくなる。

二日目には,焼酎(パーリンカ)を分けてもらいに一人の男が訪れる。男は町の崩壊を告げ,また父に対し哲学的あるいは神学的なことを語り始める。

三日目には,二頭立ての馬車に乗った旅人達が現れ,井戸の水を勝手に汲み上げた後,父娘に追い払われる。

四日目の朝,井戸の水が枯れたことがわかる。父娘は家を捨てて他の地に移ることにするが,家を発ってしばらく後に家に戻ってくる。

そして,五日目,六日目,と事態は変化していく…。


初日の晩,木喰い虫の音が聞こえなくなったことは,滅亡の始まりの暗示だろうと思う。古来より草木虫魚に異常が見つかるのは,天変地異の前触れなのである。それが決定的になるのは四日目に井戸が枯れているのがわかった瞬間である。二日目と三日目に人々が来訪するが,彼らは滅亡を逃れようとして彷徨っているのかもしれない。

"What Culture!"の記事"Edinburgh Film Festival 2011: THE TURIN HORSE"でAdam Whyteがこの映画を評して

"This is a beautiful, meditative film that grows in the mind after you've seen it."

と書いているのだが,まさしく,観た後に,この映画の存在が大きくなり,いろいろと考えさせられる,という映画である。

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この映画に触発されていろいろと考える中で,小生が「ニーチェの馬」のエピソードを初めて知った時のことを思い出したので,ここに記しておきたい。

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1991年2月,小生はチェコの作家,ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳,集英社ギャラリー[世界の文学]12巻所収)を読んでいた。

『存在の耐えられない軽さ』の第7部「カレーニンの微笑」の第2節で,著者クンデラが人間を「自然の主人で所有者」としたデカルトの傲慢さを批判しているのだが,その一節に「ニーチェの馬」のエピソードが登場する。

クンデラはヒロインのテレザが愛犬カレーニンを愛撫している場面とニーチェの馬のエピソードとを重ね合わせ,このように描いている:

「私には依然として目の前に,切り株に座り,カレーニンの頭をなで,人類の崩壊を考えているテレザが見える。この瞬間に私には他の光景が浮かんでくる。ニーチェがトゥリンにあるホテルから外出する。向かいに馬と,馬を鞭打っている馭者を見る。ニーチェは馬に近寄ると,馭者の見ているところで馬の首を抱き,涙を流す。

それは1889年のことで,ニーチェはもう人から遠ざかっていた。別のことばでいえば,それはちょうど彼の心の病がおこったときだった。しかし,それだからこそ,彼の態度はとても広い意味を持っているように,私には思える。ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。

そして,これが死の病にかかった犬の頭を膝にのせているテレザを私が好きなように,ニーチェを好きな理由である。私には両者が並んでいるのが見える。二人は人類が歩を進める「自然の所有者」の道から,退きつつある。」(集英社ギャラリー[世界の文学]12巻,797ページ)

タル・ベーラの『ニーチェの馬』を見たのち,20数年ぶりにこの一節を読むと,「ニーチェの馬」のエピソードがなぜ現代人にとって重要なのか,ということがわかってくる(単なる深読みの可能性もあるが)。

そして,「発狂」と「滅亡」というキーワードは,小生の頭の中で,また別の偉大な映画を呼び覚ましつつある。そう,タルコフスキーの『サクリファイス』である。

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