サマセット・モームのスパイ小説『アシェンデン』
『月と六ペンス』でおなじみのサマセット・モーム(William Somerset Maugham)は,かのジェームズ・ボンド卿(007)も所属したMI6の諜報員だった。
第一次大戦時にモームは諜報員となり,中立国スイスや同盟国のロシアで活動をした。その頃の経験をもとに書いたのが,この『アシェンデン』("Ashenden or the british agent", 1928)である。
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随分前に買ったのだが放置したままだった。先日のインドネシアへの出張時にカバンの中に入れておいて,移動の飛行機の中で読んだ。一人で海外に出張するという状況が,なんだか諜報員っぽい感慨を呼び起こし,わりと興味深く読んだ。
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アシェンデンというのは作者の分身で,本作品の主人公の名前である。イギリスの作家兼諜報員として働いている。主としてスイスのジュネーブで活動しているが,フランスやイタリアなどでも活動することがある。一番の大仕事らしいのはヨーロッパ->アメリカ->太平洋->日本->シベリア鉄道と地球をほぼ一周してロシア革命下のペトログラード(現サンクトペテルブルグ)で対露工作をしたことである。実際にモームもケレンスキー内閣への協力活動を行っていたという。
諜報員と言うと007・ジェームズ・ボンド卿の如き大活躍を想像する人も多いかと思うが,本作で描かれる活動は極めて地味である。モームは序文でこのように書いている:
秘密情報部で働く情報員の仕事は,全体的には,極端に単調なものなのだ。多くの仕事は異常なほど役に立たない。その仕事が物語にと提供してくれるものは,ほんの断片か要領を得ないものである。(10ページ)
本文の中でも同じようなことが書かれている:
表向きの生活は,市役所の事務員並みに規則正しく単調なものだった。決められた間隔をおいて配下のスパイたちに面会し,報酬を支払う。新顔を雇い入れることができたときには,指示を与えて彼らをドイツに送り込む。送られてくる情報を待って,受け取ったものを本部へ転送する。週に一度は自らフランス領に入り,国境の向こうにいる同僚と打ち合わせをし,ロンドンから来る指令を受領する。(「7 パリ旅行」158ページ)
アシェンデンは,戦況にどのように影響を与えるのか良く分からない仕事を淡々とこなしていくわけだが,そんな一見退屈そうに思える日常の中で,実は読者を退屈させない数多くの事件が発生している。やはり戦争なのだと思い起こさせるのは,手違いで無関係なギリシア人が殺されたり,ドイツ側についたインド人やイギリス人がアシェンデン達の罠にかかって死を迎えたりする件(くだり)である。
先日,ワシリー・グロスマンの『人生と運命』について少し書いたが,普通の人が淡々と恐ろしいことに加担するというのが戦争の怖さである(いや,我々はすでに経済戦争の真っただ中にいる。我々は普通に生活しながら世界のどこかで誰かを死に追いやっているのかもしれない。そういうことをふと思い起こさせる)。
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訳者の岡田久雄氏は朝日新聞の元記者,中島賢二氏は英文学の翻訳家。訳者あとがきによれば,両氏は東大教養部の同級生で寮の同部屋で生活していた。
もともとは中島氏が本書の翻訳を進めていたが,胆嚢ガンを患い,作業が思うように進まなくなった。そこで,岩波書店の好意により岡田氏が協力し,出版の運びとなった。訳者あとがきにも書かれているが,本書は両氏の友情のあかしである。
中島賢二氏は本書刊行の翌年,2009年4月8日に逝去した。
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