児玉源太郎は二○三高地陥落にどのくらい貢献したか?(2):伝記に見る児玉源太郎の行動
先日の記事「児玉源太郎は二○三高地陥落にどのくらい貢献したか?:公式記録に見る児玉源太郎の行動」では,公式記録である参謀本部編「明治三十七八年日露戦史」には児玉の指揮介入を明確にするような記述が見られない,ということを述べた。
司馬遼太郎は昭和になって編まれた谷寿夫「機密日露戦史」通称「谷戦史」の記述をベースとして児玉の指揮介入説を唱えているが,昭和以前から児玉が旅順攻囲戦に積極的に介入したことを述べる書籍が存在する。主として児玉の伝記である。
例えば,明治41年に書かれた森山守次,倉辻明義「児玉大将伝」(星野暢,明治41年)にはこのような記述がある:
(明治37年11月)二十九日総司令官の命を奉じ,自ら第三軍方面の戦況視察に赴くに決し,必要あれば即時総司令官の命を以て戦闘を指導しうるの権能をも委託せらる。
(森山守次,倉辻明義「児玉大将伝」403頁。原文を現代仮名遣いに改めた)
ここでは明確に指揮に介入する権利を得ていることが記されている。
児玉の要請によって煙台にいた第八師団歩兵第十七連隊(満洲軍予備隊)が旅順に援軍に駆けつけたことは前の記事でも触れたが,「児玉大将伝」では第十七連隊の増援について記すとともに児玉が直接第三軍を指揮したことを述べている:
十一月下旬第三軍司令官はまたまた二○三高地を攻撃せんとするにあたり,児玉総参謀長は新たに第八師団の一個連隊を増援し,自ら軍を指揮してこれが攻撃に参与せり。
(森山・倉辻「児玉大将伝」408頁)
「児玉大将伝」の著者の一人,倉辻明義が記した「凡例」によれば,日露戦争時の児玉に関する情報は松川敏胤少将や田中国重大佐(日露戦争時は少佐)から得たという。松川も田中も満州軍作戦参謀で,児玉の腹心あるいは側近である。「近しい人が証言するのだから真実」とする立場をとれば,児玉が指揮介入したことは間違いない,ということになるが,それでよいのだろうか?
太平洋戦争時に書かれた伝記,宿利重一「児玉源太郎」(国際日本協会,昭和17年)にはよりヴィヴィッドな表現で児玉による指揮の様子が描かれている:
満洲軍総司令官代理として神速に,そして厳かに指揮,命令し,毫も仮借するところがなく,また自ら塹壕内を往復し,二○三高地の下に匍匐してつぶさに視察するという清廉さであり,この人の炯眼は,山嶺の西南角に十一月三十日の攻撃に第七師団の兵約百名が取つき頑張っていることを知ると同時に,
「左様か,それじゃ必ず旅順の港が俯瞰し得られるに相違ない。直ちに参謀を遣って実行してみよ!」
と命じ,即刻に満洲軍の国司伍七,第七師団の白水淡,海軍陸戦重砲隊の岩村俊武の各参謀が派遣せられ,結果は「港内に七隻の戦艦,巡洋艦と多数の船舶のいる」ことが明らかになったので,児玉将軍はその撃沈を命じた。 (宿利重一「児玉源太郎」666~667頁)
また同書では,児玉の側近,田中国重少佐が東京日日新聞に語った当時の回想を引用している。ここでその一部を引用(孫引き)してみよう:
その当時は第八師団の歩兵第十七連隊が到着中で,それを児玉大将が二○三高地の方に呼ばれ,総司令官の名を以てこの連隊を使用された。この連隊が第三軍司令官の指揮下に入ったのは十二月五日で,それまでは総参謀長が自ら握っておられたのである。
(宿利「児玉源太郎」668頁)
例の援軍,歩兵第十七連隊のことであるが,田中少佐の証言によると,なんと総参謀長自らが連隊レベルの指揮を行っているのである。
大企業で例えれば,副社長クラスの人が一事業部の一部署の指示をしていることになる。いくらなんでもやりすぎである。あるいは田中少佐が児玉を美化しすぎるあまり,無いことまで言ってしまったのではなかろうかとも思われる。
「児玉の指揮介入」について論争が起こる原因の一つは,情報のチャンネルが限られていることにある。つまり旅順攻囲戦における児玉の言動に関する証言が,第三軍関係者から出ておらず,児玉の近辺,とくに田中国重少佐に限られていることにある。
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