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2011.06.10

われわれはシミュレーションの中に生きている/われわれはオメガポイントに達し得ない

ニック・ボストロムによる有名な論文がある:
Nick Bostrom, Are You Living In a Computer Simulation? Philosophical Quarterly, 2003, Vol. 53, No. 211, pp. 243-255.
参考

この論文の中でニック・ボストロムは次の3つの命題のうち,少なくとも一つは正しいと主張している。

  1. 現代文明は「ポストヒューマン」の段階に達する前に滅ぶ可能性が非常に高い
  2. 自らの進化過程のシミュレーションを莫大な回数、実行するようなポストヒューマン文明は存在しないだろう
  3. われわれはほぼ確実にコンピュータ・シミュレーションの中で生きている

ここで言う「ポストヒューマン」とは現実と区別がつかないほど高度なシミュレーションを実施できる知的種族のことである。そのような文明レベルはいわゆる「オメガポイント」に近いと言えるだろう。

そして彼らのシミュレーションの中では,知性を持った仮想現実の人類が再現され,その進化過程がシミュレートされる。論文の中ではこのシミュレーションのことを"ancestor-simulation"すなわち「祖先シミュレーション」と呼んでいる。

さらにその「祖先シミュレーション」は試行錯誤的に莫大な数繰り返され,いくつかのシミュレーションの中には仮想現実の人類がポストヒューマンの段階に達するものがあるという。

ニック・ボストロムの主張をさらに要約すると,いつの日かわれわれが「祖先シミュレーション」を実行できるようなポストヒューマンになるチャンスはない,そうでなければ,われわれはシミュレーションの中で生きている,ということになる。

このあたりの話はWikipediaの「シミュレーション仮説」の中で解説されている(参照)。

本記事ではニック・ボストロムがどうやってこのような命題を導き出したのかについて解説したいと思う。


   ◆   ◆   ◆


Substrate-indepenence(基盤独立性)の仮説

この仮説がないと議論が進まない。"Substrate-indepenence(基盤独立性)の仮説"とは,精神というものはどのような物理的基盤の上にも宿るという考えのことである。

意識は頭蓋骨の中にある炭素由来の生物学的神経ネットワークだけでなく,シリコン製のCPUの中にも宿る可能性があるということである。ニック・ボストロムは,神経線維のレベルまでよく再現されたコンピュータ・シミュレーションがあるものとして議論を進める。


   ◆   ◆   ◆


計算能力の技術的限界

現実と区別がつかないほど高度なシミュレーションを実施するためにはコンピュータの計算能力が要求される。

ニック・ボストロムは,現在われわれが持っている知識によって,ポストヒューマンが成しうる情報処理能力の下限を示している。

まず,コンピュータの能力についてだが,ドレクスラーは一秒間に10^21命令を実行しうる角砂糖大のシステム(冷却や電力供給のことは抜きにして)の概念設計を示している。ブラッドベリーは惑星大のコンピュータなら一秒間に10^42命令を成しうると見積もっている。

つぎに必要なのは人間の精神を模倣するために必要な計算能力の見積もりである。すでに実現している「網膜内のコントラスト強調の際の神経組織の働きのシミュレーション」をベースに考えると,一人の人間の脳全体では1秒間に10^14命令程度の情報処理が行われていると見積もられる。また,脳のシナプスの数とそれらの発火頻度(電位の発生頻度)を基にすると,1秒間に10^16~10^17命令程度の情報処理が脳内で行われていると見積もられる。

ここで検討の余地があるのは人間の周囲の環境をどれだけ再現するか,という問題である。宇宙全体を量子レベルまでシミュレートすると言うのは物理的に無理である。しかし,通常の人間が体験する範囲に絞れば計算負荷は減る。顕微鏡レベルの現象は問題なく除外できる。天文学上の現象も真実味を失わない程度に省略できる。

すると,人間の歴史を真実味のあるレベルで再現(祖先シミュレーションを実施)することにすれば:

(現代文明からポストヒューマン文明に進化するまでに生存する人間の延べ人数:1000億人と仮定)×(一人あたり50年の寿命)×(3000万秒(=1年))×(脳内の情報処理=10^14~10^17命令毎秒)=10^33~10^36命令

の情報処理量が必要であると見積もられる。

この数字はブラッドベリーが提唱する惑星大のコンピュータの一秒間の処理能力10^42命令よりは小さい。しかもこれは現人類が想像するコンピュータの能力であって,ポストヒューマンたちはもっと優れたコンピューターを持つことができるだろう。

ポストヒューマン文明はその資源のほんの一部を振り向けるだけで、極めて多くの祖先シミュレーションを実施するに足る計算能力を持つことだろう。


   ◆   ◆   ◆


数学的議論:「極限」の利用

ニック・ボストロムの議論の中核部分である。彼は数式を用いて議論しているが,本記事では本質を損なわない程度に彼の議論を書き直してみる。

まず,つぎのようないくつかの変数を導入する:

 fp:現実か仮想現実かを問わず,ある文明が現代文明レベルからポストヒューマン文明レベルに達する確率
 N:あるポストヒューマン文明が実施する祖先シミュレーションの回数(期待値)
 H:現実か仮想現実かを問わず,ある文明が現代文明レベルからポストヒューマン文明レベルに進化するまでに生存する人間(知性)の延べ人数

さて,あるポストヒューマン文明の進化過程で生存していた人間(知性)の延べ人数は

H

である。

また,そのポストヒューマン文明が実施する祖先シミュレーションの中で,ポストヒューマン文明レベルに達した仮想現実文明の数は

fp N

である。また,ポストヒューマン文明レベルに達した仮想現実文明の進化過程で生存していた仮想現実人間(知性)の延べ人数は

fp N H

である。

そうすると,ポストヒューマン文明レベルに達した現実の文明と仮想現実の文明の進化過程で生存していた人間(知性)のうち,仮想現実に属する人間(知性)の割合:fsimは

fsim = fp N H / ((fp N H) + H) = fp N / (fp N + 1) …(1)

となる。

ところで,あるポストヒューマン文明が祖先シミュレーションを実施する意志を見せる確率をfI,実際にポストヒューマン文明が実施する祖先シミュレーションの回数をNIとすると、

N = fI NI

となる。これを上の式に代入すると,

fsim = fp fI NI / (fp fI NI + 1) …(2)

となる。

もしポストヒューマン文明が祖先シミュレーションを行うとすれば、NIは莫大な数となる。

NI -> ∞ならば,fsim -> 1

となり,仮想現実に属する人間(知性)の割合は1に近づく。ここから「われわれはほぼ確実にコンピュータ・シミュレーションの中で生きている」という命題が生じる。

また,式(2)を変形すると,

fp = fsim / ((fsim - 1) fI NI) …(3)

fI = fsim / ((fsim - 1) fp NI) …(4)

となる。

NI -> ∞ならば,fp -> 0, fI -> 0

となる。つまり,"fp -> 0"から「現代文明はポストヒューマンの段階に達する前に滅ぶ可能性が非常に高い」という命題が,"fI -> 0"から「自らの進化過程のシミュレーションを莫大な回数、実行するようなポストヒューマン文明は存在しないだろう」という命題が生じるというわけである。


   ◆   ◆   ◆


われわれが高度な仮想現実の技術を獲得するにしたがって,われわれ自身が仮想現実の中に生きているという可能性が高くなる,ということだろう。

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