西郷信綱『古事記の世界』(岩波新書)を読む
松前健『日本の神々』(中小新書372)に続き,今度は西郷信綱『古事記の世界』(岩波新書・青版654)を読んだ。
古事記の世界 (岩波新書 青版 E-23) (岩波新書 青版 654) 西郷 信綱 岩波書店 1967-09-20 売り上げランキング : 291487 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
これも初版1967年ということなので,今となっては大変古い本である。しかし,社会学や人類学のフィールドワークの手法や,本居宣長流の「知覚の信にもとづいて事物の本質を洞察しようとした」手法に強い影響を受けたアプローチの仕方は小生にとっては非常に新鮮に感じた。
以下,少しばかり本書の解説を試みる。
◆ ◆ ◆
上述したように,著者の古事記に対するアプローチの仕方には特徴的なものがある。
現在の社会学や人類学ではフィールドワークを重んじ,対象とする社会に住み込んで観察することにより研究を進める。このフィールドワークの手法に影響を受けた著者は,いわば古事記の中に分け入って,古代人と感覚を共有することによって,古事記の世界を理解しようとする。
ギリシャや聖書に由来する神話概念を持ってきて古事記を解釈したり,考古学・歴史学の知識を以って合理的に解釈(これを著者は「自然主義」と呼んでいる)したりはしない,というのである。
著者は言う:
私の目ざすのは,古事記のなかに住みこむこと,そしてその本質を本文のふところにおいて読み解くことである(14ページ)
「本文のふところにおいて読み解く」という行為の極めて分かりやすい事例が本書の第1章「神話の言語」にある。それは,「葦原中国(あしはらのなかつくに)」という言葉を,使われている文脈の中で読み解く作業のことである。
著者は前後の文章を詳細に読むことにより,「葦原」の持つイメージは,葦の茂った不気味な未開な地であること,「中国(なかつくに)」とは「高天原・中つ国・黄泉の国」という古代人の空間認識の中における「中つ国」であることを説いている。この説は,本居宣長や白鳥庫吉などによる過去の解釈に比べ,非常な説得力を持っている。
◆ ◆ ◆
前回紹介した松前健氏は『日本の神々』の中で古事記・日本書紀・延喜式の記述の異同を比較検討することによって,日本神話の成立過程を明らかにした。
本書において西郷信綱氏は,古事記・日本書紀等の言葉遣いについて注意を注ぎつつも,記述の細かな違いにとらわれるのではなく,それらに共通する「構造」の発見に努めている。ここで言う「構造」とは「構造主義」における構造のことである。
実際,著者はレヴィ・ストロースの仕事に多大なる影響を受けており,第2章「神話の範疇」はレヴィ・ストロースの強い影響下に書かれたものである。
◆ ◆ ◆
独自のアプローチによって,著者が明らかにしたのは古代人の宇宙観や生活リズムである。例えば,宇宙観については次のような事項を挙げている
- 伊勢・大和・出雲の関係性
- 古事記において伊勢や出雲といった土地が重要視されるのは,大和から見てそれらが日の出・日の入りの方向にあるからである
- 伊勢は日の出の方向にあり,高天原を象徴する
- 出雲は日の入りの方向にあり,根の国・黄泉の国の入り口となっている
- 罪の化身としてのスサノヲ
- スサノヲはもともと根の国・黄泉の国の住人であった
- 海洋に接していた民族共通の宇宙観によれば,「陸地は平たい盤のごときもので,まわりを海がとりまき,その海の端が他界との境で,そこが崖のような坂になっており,それを下の方に降りていったあたりに海神の国や根の国がある」(64ページ)
- 大祓の祝詞を読んでも,そのような世界構造が浮かび上がってくる
- また,大祓の祝詞によれば,地上の罪という罪は神々にリレーされ,最終的には根の国に捨てられる
- スサノヲが根の国に追い払われるのは,結局,スサノヲが根の国に住まう罪の化身であったからで,最終的には再び根の国に戻されなくてはならない存在だったからである
- 神話の地名と地理的地名との違い
- 古事記に出てくる地名は上述した宇宙観に基づいて名づけられたものであり,地理的地名と必ずしも一致しない
- 黄泉の国から帰ってきたイザナキが禊をした「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(をど)のアハギ原」は現実の日向(宮崎県)の特定の土地のことを指すのではなく,「暗い黄泉にたいする朝日の直(ただ)さす東の海というのにつきるのである」(61ページ)
- ホノニニギが降臨した高千穂というのは必ずしも地理的な地名としての名称ではなく,「ホノニニギ=稲穂のにぎにぎしく豊かなこと」という言葉にひかれて出てきた「山と積まれた稲の穂の豊穣」(140ページ)を表す言葉である
- 神話において大和と日向は同一の地であり,熊野と熊襲もまた同一である
- それゆえに古事記では神武東征の段で「吉備と難波との間に速吸門(ハヤスヒノト,豊予海峡)があるかのように平然と書き,また熊野をめぐり大和に入った道順に混乱と撞着がある」(171ページ)のである
◆ ◆ ◆
と,まあ,いろいろな面白い話が出てくるが,実は本書で一番大事な説についてまだ触れていない。
それは何かというと,「天孫降臨・日向三代・神武東征」といった神話は大嘗祭を物語化したものだ,という説である。
著者は大嘗祭は新任の君主が天照大神(アマテラス)じきじきの子,ホノニニギ(古事記の記述ではホノニニギはオシホミミの子であるのだが,本書の文脈ではアマテラスの直接の子のように記述されている)として生まれ出でる儀式であると説いている。
また著者は,神武東征の物語は歴史的事件の記述ではなく,国ぼめ・国見にならぶ国まぎ(都とするべき良き地の探求)という,即位儀礼の一部を物語化したものであると説き,一時はセンセーションを巻き起こした「騎馬民族説」を一蹴している。
◆ ◆ ◆
「天孫降臨・日向三代・神武東征」に関わる3つの章(第8~10章)は非常に刺激的であり,そこを読むだけでも本書の価値はある。
だが,それよりも何よりも,文化人類学・歴史学・考古学・民俗学・言語学といった様々な分野の知見,いわば飛び道具のようなものに頼らず,古事記の徹底した読み込みによって神話の世界を明らかにしようという著者の学問の姿勢が見えるところが,本書の魅力であると思う。
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