コンビニ本にもかかわらずクオリティが高い半藤一利の本
コンビニの本棚で見かけてスナック菓子とともに買ったものの、放置していた本をちゃんと読んでみた:
半藤一利『日本海軍の興亡(愛蔵版)』(PHP研究所、500円(税込))
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半藤一利は「週刊文春」や「文藝春秋」の編集長を務め、また、昭和史を中心としたノンフィクションを数多く手がけていることで知られている作家である。夏目漱石の親族であるということも有名。小生が読んだことがあるのは『ノモンハンの夏』である。
「半藤一利の謹厳なイメージ」と「ワンコイン本というお手軽さ」が組み合わさったらどうなるのだろう、と思って読んでみた。読了まで3時間。編集の仕方というか章建てに難が感じられたものの、内容は1000円ぐらいの本の価値が感じられた。
どこに価値を感じたかというと、今まで無かった視点と、今まで知らなかった史実を得ることができたという点である。日本海軍の歴史の全貌もつかめた。
◆ ◆ ◆
<今まで無かった視点>
最初からいきなり、「日本人がいまだかつて海洋民族だったことなどあるのだろうか?」という疑問が提示されている。コロンブス、マゼラン、クックに比するほどの世界史的活躍があっただろうか?というのである。日本人は「海浜民族」だった、というのが半藤一利の主張である。
小生なりに概念整理するとこんな感じ:
- 海洋民族:世界史的視点・国際社会の潮流を読む力
- 海浜民族:国土のまわりの海だけが舞台・国内志向
で、日本海軍70年の歴史とは、海浜民族を脱し、海洋民族たろうとして努力し、挫折し、「最後は悲惨をもって終わ(本書10ページ)」った歴史だったということである。その歴史の概要は以下の通り。
<海軍の歴史>
その1 海軍創設期
日本海軍の歴史といえば、勝海舟に始まるのだが、実質的に日本海軍を作り上げたのは山本権兵衛(通称は「ごんのひょうえ」だが、本当は「ごんべえ」)である。
この人がいなかったら、海軍は陸軍に隷属したままだった(明治36年まで陸軍参謀本部の中に海軍軍令部が含まれていた)だろう。まともな艦隊を整備できず、日本海海戦における勝利も無かったかもしれない。
山本権兵衛の尽力によって海軍は独り立ちすることに成功するが、山本権兵衛は海軍に3つの負の遺産を残した。
ひとつは陸軍との対立である。海軍を陸軍と対等の組織にすることが山本の目標だったが、それが陸海軍の深刻な対立を生むこととなる。山本権兵衛はシーメンス事件(1914(大正3)年)で失脚するが、この事件は陸軍長州閥による山本への復讐であるという説がある。
もうひとつは、これも陸軍との対立と関係あるが、仮想敵国をアメリカに設定したことである。陸軍がロシア->ソビエトを仮想敵国としていたのに対して、山本は海軍の独自性を貫くため、別の仮想敵国としてアメリカをもってきた。そしてアメリカの海軍力をベンチマークとしてその7割の海軍力を保持すること(対米七割)を海軍の方針としたのである。ここで重要なのが「仮想敵国」という概念。これは山本にとってはベンチマークという位置づけだったのだが、後継者たちの多くはその意図を理解できず、アメリカを真の敵国として位置づけてしまったのである。
最後のひとつは東郷平八郎元帥である。予備役編入のうわさまで上がるほど風采の上がらない男だった東郷平八郎を山本権兵衛は日露戦争において連合艦隊司令長官に抜擢した。山本は東郷を客観的・論理的判断のできる司令官だと見抜いていたのである。この人事は成功し、日本海海戦の勝利につながる。しかし、この勝利は東郷平八郎元帥の神格化につながり、後に海軍を混乱に陥れることとなった。
その2 軍縮時代
山本の後継者とも言うべき存在は加藤友三郎(ともさぶろう)だった。1921(大正10)年に開かれたワシントン海軍軍縮会議において、海軍大臣として出席した加藤友三郎は、アメリカ国務長官ヒューズの「米英日の主力艦のトン数比率を5対5対3とする」という提案、つまり「対米6割」案を受け入れた。
山本権兵衛の唱えた「対米7割」は絶対的なものではなく、国際社会や経済、日本の国力の状況に応じて変えるべきだというのが加藤の考え方なのである。また、日米の主力艦の総トン数を5対3とすることは、むしろアメリカの海軍力を制限する枠組みとなる。
しかしながら、加藤友三郎の考えは海軍省と海軍軍令部との間の対立を生んだ。海軍省は対米不戦の方針をとっていたが、海軍軍令部にはタカ派の加藤寛治(ひろはる)、末次信正(すえつぐ・のぶまさ)らがいた。かれらはアメリカを真正敵国とみなし、対米7割の方針を堅持していた。
その3 対米強硬派
1930(昭和5)年、ロンドン海軍軍縮会議が開催された。ここでは補助艦の対米比率が検討され、重巡洋艦の総トン数に関しては対米6割とするが、補助艦の総トン数においては対米7割とする妥協案が提示された。
日本政府および海軍省(条約派・対米不戦派)は対米不戦の立場からこの案を支持したが、海軍軍令部(艦隊派・対米強硬派)は反対の意思を示した。軍令部長加藤寛治、次長末次信正らは政友会と結託し、帝国議会で「政府が統帥権を干犯している」と糾弾した。加藤・末次はさらに皇族伏見宮と"神様"東郷元帥を持ち出し、条約派を追放した。
昭和8~10年にかけて海軍の中枢は「対米強硬派か、ないしはどっちつかずの八方美人主義の提督たち(本書69ページ)」によって占められた。また、海軍の中には「つねに科学的、合理的であるべき海軍の本質から逸脱し、いたずらにあおられた危機感や反英米感情をもった夜郎自大の政治的軍人が輩出した。(本書71ページ)」
戦後、「戦争は陸軍が起こしたもので、海軍は止めようとした」というような「海軍善玉論」が流布されるようになったが、実際には海軍の軍人の多くは好戦的な行動をとっていたのである。
その4 海軍の終焉
海軍の良識派(対米不戦派)が最後の奮闘を見せるのは昭和12年から14年にかけてである。海軍大臣米内光政、次官山本五十六、軍務局長井上成美(しげよし)の3名、いわゆる「条約反対三羽ガラス」が海軍省の中枢を占め、三国同盟締結阻止に動いた。しかし、平沼内閣が倒れて後、「条約反対三羽ガラス」は海軍中枢を追われ、対米強硬派が海軍の実権を握ることとなった。以後、海軍は太平洋戦争への道をつきすすみ、破滅に至ることとなった。
<知らなかった史実>
日本海海戦というと、「坂の上の雲」の影響であろうか、東郷平八郎と秋山真之(さねゆき)ばかりがクローズアップされるのであるが、かれらと同等以上の功績があるのが、上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)と藤井較一であることを、本書を読んで知った。
日本海海戦当時、上村彦之丞は第二艦隊司令長官、藤井較一は第二艦隊参謀長だった。
「坂の上の雲」では東郷平八郎はバルチック艦隊が対馬海峡に来航するという確信を持っていたかのように描かれているが、史実ではそうではなかった。
来航が予定されていた日が過ぎてもバルチック艦隊は対馬海峡に現れず、秋山真之も東郷平八郎もバルチック艦隊が津軽海峡に向かっているものと判断した。その結果、1905年5月24日には各艦に対して津軽海峡移動を指示する「密封命令」が交付された。
しかし、同日および翌日、藤井較一は孤軍奮闘、バルチック艦隊の対馬海峡来航の論陣を張り、津軽海峡移動の阻止に努めた。藤井の意見は島村速雄第1戦隊司令官に支持され、津軽海峡移動は延期された。これにより、連合艦隊はバルチック艦隊を対馬海峡で迎え撃つことに成功した。
日本海海戦当日も、藤井較一は上村彦之丞とともに重要な働きをしている。
戦闘開始30分を過ぎてから、連合艦隊があやうくバルチック艦隊を取り逃がしそうになる局面があった。藤井はバルチック艦隊の行動を的確に読み取って上村に進言した。上村の第2艦隊はバルチック艦隊の退路を断つことに成功し、連合艦隊を完勝に導いた。
◆ ◆ ◆
というわけで、ワンコインでこれだけ知識が得られれば、非常にお得だと思った。半藤一利の本はコンビニの棚のであってもクオリティが高い。
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