【お蔵出し】先月、津和野に行ったわけで【その2:森鴎外記念館とかカトリック教会とか】
前記事の続きである。太鼓谷稲荷神社への参拝後、今度は1キロぐらい離れたところにある森鴎外記念館に向かった。
森鴎外はここ、石見の国、津和野の生まれである。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言は有名である。
小生は鴎外の小説をあまり読んでいない。「阿部一族」と「最後の一句」と「舞姫」ぐらいか?
小生にとって鴎外とは関川夏雄・谷口ジロ―『秋の舞姫』の鴎外である。
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1989年、つまり20年以上前にこのマンガを読んで以来、ここに描かれていた鴎外のイメージがこびりついてしまっている。
で、鴎外記念館を訪れたことによって印象が変わったかというと全然そういうことはなかった。
ただ、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)本科の成績(卒業席次)が芳しくなく、大学に残れなかったというエピソードはここで初めて知った。文部省派遣留学生になれなかったので、陸軍軍医となり、陸軍派遣留学生になるといういわば抜け道エリートコースを使ったのだな、というのが小生の解釈。
上述の「舞姫」、「秋の舞姫」は留学生時代に交際したエリス(エリーゼ・ヴァイゲルト)に関する作品なのであるが、エリスが日本に来たこと、そして本名がエリーゼ・ヴァイゲルトであることが横浜発行の英字紙の記事によって裏付けられた(中川浩一氏が突き止めた)という話は、この鴎外記念館で初めて知った。
鴎外記念館のそとには鴎外の旧宅がある。
庭に植えられた桜がほころび始めていた。
さて、森鴎外記念館のあとは、津和野駅周辺の街並み探訪である。殿町といわれるあたりに行った。
津和野に来るまで知らなかったのだが、ここはキリシタン殉教の地として知られているのだそうだ。どういうことかというと、明治元年に長崎から153人のキリシタンが送られてきたが、そのうちの36人が津和野藩の改宗の勧めに応じず、拷問で命を落としたのだという。
このエピソードによって、津和野はキリスト教信者にとって重要な地となり、マリア聖堂や津和野カトリック教会などのキリスト教建築が立てられるようになった。小生らはこのうちの津和野カトリック教会に行ってみた。
たいそうご立派なゴシック建築の教会であるが、殿町の街並みを乱すことなく、調和して建っている。ドイツ人によって昭和6年に建てられたものだというが、ネットで調べると、そのドイツ人がシェーファになっていたり、ヴェケレーになっていたりする。一体どっちなんだ。
中に入るとステンドグラスが光り輝いて非常に美しい。あと、椅子が並んでいるのではなく、畳が敷いてあるという、いわば和洋折衷のインテリアが面白い。
カトリック教会を後にして、小生らが向かったのは、津和野藩の藩校、養老館である。
もとは別のところに立っていたのだが、火災で焼失し、安政2年(1855)に改めてこの殿町に建設された。西周や森鴎外は幼少期にここで学んだという。
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