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2010.01.10

【Victoria Revolutions AAR】スウェーデンの歴史その3: 防衛戦争からデンマーク併合まで

第二次対伊防衛戦争・第二次対露防衛戦争(1887年6月~1891年6月)
 政権:ランドマナ党(~1888年2月)、保守党(1888年2月~)
 統一後のイタリアには領土拡大の意志がありありとみられた。1886年にはあろうことか永世中立国であるスイスを侵略、同年12月14日、イタリアはスイスからスィテンとベリンツォーナを得た。スイス国威を300失った。勢いに乗るイタリアがヴィテルボ奪還に動き出すのは明らかだった。

 1887年6月14日、ついにイタリアが我が国に宣戦を布告した(第二次対伊防衛戦争。我が国では第三次イタリア統一戦争の後半を第一次対伊防衛戦争とみなしている)。7月6日にはイタリア陸軍がヴィテルボに侵攻、9月26日我が国の海軍がイタリアとボニファシオ海峡で戦って敗北した。我が国がドイツから独立保障を得たのは10月3日でこの戦争には間に合わなかった。 我が国はヴィテルボ防衛の援軍を送ったものの、10月16日には壊滅し、11月4日にはヴィテルボが陥落した。我が国は専守防衛方針の下、海外派兵用の輸送艦隊を準備していなかった。これがヴィテルボへの大量派兵の障害となり、結果としてヴィテルボ失陥へとつながった。

 翌1888年6月、イタリア軍は我がアラビア半島植民地に突如上陸。17日にマリヤーを奪取した。後手に回ってしまったものの、我が国は数少ない輸送船をまずマダガスカルに送り、その地で植民地兵を乗せ、アラビア半島に赴かせることにした。植民地兵は約2年後の1890年3月9日にマリヤーをイタリアから解放した。

 翌1889年7月28日、もう一つの仮想敵国であるロシアが我が国に宣戦を布告した(第二次対露防衛戦争)。ここでドイツによる独立保障が機能した。同日、ドイツが我が国の側についてロシアに宣戦を布告したため、ロシアの戦力は大幅に殺がれることとなった。

 初戦ではトルニオが10月4日に、ルーレオが11月19日にロシアに奪われた。オウルでは守備軍が踏みとどまっていた。我が国はオウルに援軍を送るとともにフィンランド方面から反撃に出た。

 1890年1月8日、我が軍はオウルでロシア軍に勝利した。ヴァーサ侵攻軍は1月12日から2月15日にわたり5度、ロシア軍と交戦、いずれも勝利を収めた。2月17日、我が国はヴァーサをロシアから解放した。
 1890年2月、我が軍はルーレオをロシアから解放した。以後、トルニオ、ヴァーサ、コーラ、カンダラクシャを巡って一進一退の戦いが続いた。

1890年5月3日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 186
 工業力: 500
 軍事力: 27
 ランキング第8位(列強)
 人口: 19,806,000
 借款: 32000
 戦争による消耗: 26.3%

189005031
トルニオにおける戦い

189005032
同盟国ドイツとロシアの戦い

 イタリアはヴィテルボの占領を続けていたが、それ以上に事態を進展させることはできなかった。1890年12月5日、我が国とイタリアとの間で「現状への復帰」を条件とする和平が成立した。ヴィテルボは再びスウェーデンに帰った。

 ロシアは我が国の奮戦、そしてドイツの苛烈な攻撃を前に徐々に戦意を失っていた。1891年6月14日、我が国とロシアとの間で「現状への復帰」を条件とする和平が成立した。

 こうして4年にわたる防衛戦争が終了した。

 なお、ドイツとロシアとの間の和平は1892年9月9日に成立し、ロシアはラドム、ビヤウィストク、カプスカス、スヴァウキ を、ウーチ、スキェルニェウィツェ、キエルツェ、プウォツク、カリシ、リバヴァ、シャヴリ、ロムツァをドイツに割譲した。

財政再建および瑞独軍事同盟の締結(1891年7月~1898年7月)
 政権:保守党(~1992円11月)、ガムラランドマナ党(1992円11月~1897年8月)、農民組合(1897年8月~)
 2度にわたる、イタリア、ロシアとの戦いの結果、我が国は莫大な借金を抱えていた。平和条約の有効期間中に財政再建を果たすことが我が国最大の課題であった。また、イタリア、ロシアから容易に戦争を仕掛けられないようにするためにはドイツと軍事同盟を結ぶ必要があった。

 第二次対伊防衛戦争・第二次対露防衛戦争中の1890年5月、我が国の西アフリカ植民地ビサウで反乱がおこり、同地は叛徒に占領されていた。この地を奪還するため、1893年10月8日、正規兵をビサウに派兵し、10月27日同地を解放した。アフリカ、アラビア、インド、東南アジアに点在する我が国のすべての植民地を管理し続けることは困難を極める。そこで、我が国はビサウを放棄、ドイツに割譲することによってドイツとの軍事同盟締結を進めることとした。

 1893年11月4日、我が国はドイツにビサウを譲渡し、その代わりに技術供与を受けるという協定を結んだ。これにより、我が国とドイツとの有効度は最大値に達した。そして翌1894年5月7日我が国とドイツは相互防衛条約(瑞独軍事同盟)を締結した。この軍事同盟は有効に機能し、我が国とイタリア、ロシアとの平和条約が失効した後も両仮想敵国からの侵攻は起こらなかった。瑞独軍事同盟はこれ以後、1929年5月25日まで35年間続いた。

1893年11月4日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 191
 工業力: 477
 軍事力: 32 (常備軍20師団、予備軍24師団、艦隊6隻)
 ランキング第9位(独立国)
 人口: 20,322,000
 借款: 44260

18931104
ドイツに割譲する直前のビサウ(反乱鎮圧直後)

 この時代、イタリアはスイス併合の意志をむき出しにしていた。我が国との和平成立直後にスイスに宣戦を布告し、1892年8月4日にはバーゼル、チューリヒ、クール、ルツェルン、ジュネーヴを獲得していた。スイスは国威を300失った。さらに1898年3月、イタリアはスイスに対し3度目の宣戦布告を行い、ついにスイス併合を完了させた。この事態を見て、我が国民はいずれイタリアに鉄槌を加えなくてはならないとの意識を強くした。

 農民組合政権下、我が国は財政の黒字化を果たした。この余剰の資金は鉄道敷設、工場建設、海軍の近代化に充てられた。

デンマーク併合(1898年8月~1910年10月)
 政権:農民組合(~1907年2月1日)、自由会衆党(1907年2月1日~)
 1898年8月18日、デンマークが財政破綻したとの情報が入った。無能な政府の下にいるデンマーク国民は不幸である。政府と国民は、同じスカンジナビア人であるデンマークの民を救うとともに、彼らを我が国の一員とすることで我が国に繁栄をもたらすべきであると考えた。

1898年9月6日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 188
 工業力: 543
 軍事力: 34 (常備軍24師団、予備24師団、艦隊6隻)
 ランキング第9位(独立国)
 人口: 20,884,000
 現有資金: 3949

18980906
今まさに出港しようとする我が国のまことに小さな艦隊

 1898年9月6日、我が国はデンマークに対して宣戦を布告した(第一次スカンジナビア統一戦争)。財政に悪影響を及ぼさないため、戦争には常備軍のみが動員された。9月17日、我が軍がデンマークを相手にスドーレベルドで戦い、勝利した。 これによって海峡を渡ることが容易になった。1899年1月20日、我が軍がオルボアに上陸、2月3日に同地をデンマークから解放した。2月15日には別働隊が首都コペンハーゲンに到着し、交戦状態に入った。コペンハーゲンでの戦闘が続く中、デンマークから和平提案があり、1899年4月6日、我が国とデンマークとの間で和平が成立した。オーゼンセ、オルボア、ヴィボルが我が国の領土となった。新領土において我が国は鉄道敷設、工場の再建を進めた。

 和平条約失効後の1905年1月6日、我が国はデンマーク併合を進めるべく、再び宣戦を布告した(第二次スカンジナビア統一戦争)。1905年4月14日、我が軍はコペンハーゲンをデンマークから解放した。今回はオルフスを我が国へ割譲するとの条件で和平が成立した。デンマークに残るのはコペンハーゲンのみとなった。

 そして、1910年8月7日、最後の戦いが始まった(第三次スカンジナビア統一戦争)。1910年10月9日、デンマークは我が国に併合された。

1911年5月12日現在のスウェーデンの状況
 国威: 405
 工業力: 1003
 軍事力: 43
 ランキング第7位(列強)
 人口: 30,094,000
 現有資金: 57167

列強の順位
 1位 イギリス
 2位 ドイツ
 3位 アメリカ
 4位 日本
 5位 フランス
 6位 イタリア
 7位 スウェーデン
 8位 カナダ

19110512
併合後のデンマークの様子および再建された我が国の艦隊(1911年5月12日)

 このスカンジナビア統一戦争中に起こった国内外の出来事
 国内
 1901年8月16日、“ナイル川の水源はいずこ?”という論争が発生。健全財政の維持が国是である以上、国威が低下しようともこのような馬鹿げた冒険への支援は行わないことを決定した。

 1901年12月11日、“ノーベル賞”が制定され、国威が大いに増した。

 国外
 1900年1月、“義和団の乱”が発生。列強が中国を蚕食するきっかけとなる。このとき中国に宣戦を布告したロシアに対し、日本が中国の側についてロシアに宣戦を布告した(第一次日露戦争)。この戦争は1903年7月11日に終結し、千島列島、ウドゥスコエ、サンジン、サハリンオーラ、ハバロフスク、ニングタが日本に割譲される。1907年4月にはふたたびロシアと日本との間で戦端が開かれた(第二次日露戦争)。この戦争は数十年にわたって継続する大戦争となり、日露両国の発展を大いに妨げることとなった。

 1902年5月11日にはオーストラリアが、1908年11月30日にはニュージーランドがイギリスから独立した。

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