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2010.01.27

【広域行政体】「橋下知事の『大阪府・市』解体再編構想」【やるべし】

橋下知事が『大阪府・市』解体再編構想をぶち上げたそうである:「橋下知事の「大阪府・市」解体再編構想が波紋」(2010年1月27日、読売新聞)

小生としてはいいと思いますよ、これ。

「道州制」ってのは実現性に乏しい感じがするのだが(例えば、山口県の場合、九州に入るのか中国に入るのかで大揉めに揉めるであろう)、「広域行政体」を作るというのは、都道府県制度と道州制の間にある、比較的とっつきやすい構想だと思う。

大阪府は域内に大阪市と堺市という政令指定市を抱えていて、実は予算も権限も強くない。府も市も中途半端な力しかもっていないというのが現状。だったら、両者合併して重複するものを削り、効率化して、権限も財力も強化した方がよい。

おなじようなことは大阪に限らず、あちこちでできるだろうと思う。たとえば「関門特別市」とか。->そうしたら山口宇部空港と北九州空港の一元化もできたりして:「宇部空港の乗降客数

本ブログでの関連記事:

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2010.01.21

御手洗会長は自民党支持の姿勢を貫徹したらどうだい?

こんなニュースが。
『自民離れ』? 御手洗会長、党大会欠席へ」(2010年1月21日、毎日新聞)

御手洗冨士夫会長の欠席は「上海出張」のため、だそうだが、「政権与党に配慮したドタキャン」(自民党関係者)との見方も出ているそうだ。きっとそうだ。

急に上海出張が入るわけが無い。世界のキヤノンなんだから上海出張日程の方をどうにかできるはず。

昨年の総選挙まで経団連は明確に自民党支持を打ち出していたんだから、その姿勢を今後も貫徹するべきなのではないか?

どうでもいいけど、御手洗冨士夫会長がキヤノンU.S.A.社長時代、昼食時にわがままぶりを発揮していたという逸話を知って以来、なんかキヤノン製品を買うとその代金が御手洗会長の遊興費の一部になるような気がして、キヤノン製品の購入を避ける傾向が出てきてしまった。 この間年賀状印刷のためにベスト電器に行ってプリンターを検討したのだが、結局エプソンのEP-802Aを買ったもんね。無線LAN対応で凄くいい!

しかしながら、その陰で、以前購入した同社製両面スキャナーDR-2050SPが、最近、片面をスキャンしてくれなくなった。御手洗会長の祟りか? 前に「不忠をわびて藍綬褒章を返納すべきである」(「格差社会を憂う陛下」)なんて書いたし…。

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2010.01.20

勤め先にペリカンが来た件

勤め先にペリカンが来た件
いや、驚いた。
勤め先の駐車場にペリカンが現れたのである。

宇部ならではの小事件。

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2010.01.19

来月下旬からラオスで教えるので

今年もまたラオスに行き、同地の社会人を教えるので、教材を作成している今日この頃である。他にも仕事があるのでややパニック状態。だから年度末の3カ月は嫌い。

ラオスでは技術経営について教える予定。しかし、そもそも技術の発達していない国なので、受講生にとっては重工業だの化学プラントだのICTだの、雲をつかむような話である(昨年の経験)。

ということで、日本で教えているような技術経営の話ではなく、世界の産業の状況や日本の産業史について語ろうかと今年は方針変更。

Andrew Gordonの"A Modern History of Japan, from Tokugawa Times to the Present" (Oxford) (邦訳はみすず書房から『日本の200年・徳川より現代まで 上下』として出ている)をベースに統計局の長期統計などを加えて資料を作っているところである。

The Modern History of Japan: From Tokugawa Times to the PresentThe Modern History of Japan: From Tokugawa Times to the Present

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こんかいここに乗せる資料は江戸時代から19世紀の終わりまでの産業と教育にかかわる部分をまとめたもの(暫定版)。穴だらけだが、あとはしゃべりで埋めるということで:

「Japan19th.pdf」をダウンロード

Andrew Gordonの引用ばっかりじゃねえか、という批判はごもっともである。

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2010.01.16

私はこれで共通一次(死語)国語198点を達成しました

小生は最後の共通一次試験世代である。若い人には何それ?という感じだろうが、今の大学入試センター試験にあたるものである。

今日、宮脇書店の中をうろついていたら平積みになっていたのがこれ:

新釈 現代文 (ちくま学芸文庫)新釈 現代文 (ちくま学芸文庫)

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小生にとっては懐かしい本であるが、「伝説の参考書」だったとは知らなかった。昔は「新塔社」という出版社から出版されていたが、昨年、ちくま文庫に入ったようである。

小生は高校時代、理系だったにもかかわらず、理数系科目は振るわなかった。一方で得意だったのが世界史と現国。小生の国語における快進撃を支えていたのはこの本である。

小生が高校時代に最後まで読みとおした参考書はこの高田瑞穂『新釈 現代文』と山本義隆『新・物理入門』(駿台文庫)の2冊だけだった。『新・物理入門』は非常に面白い本だったが即効性はなく高校での物理の成績は振るわなかった。大学受験の2次試験になってようやく効果を発揮した。

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なんで当時、高校2年生の小生が、高田瑞穂『新釈 現代文』を選んだかというと、


  • 書店の受験コーナーの並みいる参考書の中で、一つだけ黄緑色の表紙で孤高の輝きを放っていたこと
  • テクニックが詰め込んであるような感じではなく、むしろ読み物のような感じだったこと
  • まえがきに、非常に潔いことが書かれていたこと

などが理由である。

まえがき「読者への言葉」に書いてある潔いこととは第一行目の

この本は、結局「たった一つのこと」を語ろうとするものです。

という一文のことである。「たった一つのこと」以外の小手先のテクニックは教えませんというのが非常に潔い。

知識ではなく論理を重視する現代国語において重要な「たった一つのこと」とは、現代文の著者・筆者たちの言葉を追跡し、論旨を把握することである、ということを高田瑞穂は本書の中で主張しているのである。本書には41個の例題が掲載されているが、全て「たった一つのこと」の練習に終始している。

受験生だった小生は「たった一つのこと」を現代国語における唯一にして最大の武器として活用した。共通一次試験で国語198点(自己採点。古文と漢文含む)を達成できたのはこの本のおかげである。

しかし、今になって考えると、文章や発言を追跡し、論旨を把握することは単なる受験テクニックではなく、コミュニケーションにおけるもっとも重要なことであることがわかる。

この年齢になって読み返してみて、懐かしさだけでなく、改めて蒙を啓いてくれる参考書というのはほとんどないのではなかろうか?

なお、巻末に「近代文学の何を読むか」という一節があり15編の小説がリストアップされている。小生はここに取り上げられてる作品を全部読了したぐらい、この参考書に心酔していた。

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2010.01.15

【用語問題】心は折れるものなのか?

「心が折れる」という表現が気になってしょうがない。
そんな言い方ってあったっけ?イチローが作り出した表現では?と思っていたら、同じ問題を気にしている人々がいた:

心はいつから「折れる」ようになったのか」(読売新聞、発言小町、2009年5月31日)
心が折れる」(今日聞いたへんな日本語、2009年5月25日)
「心が折れる」という表現を最近よく耳にしますが、昔から使っている言葉なのでしょうか」(Yahoo! Japan:知恵袋、2007年4月29日)

これらの情報に寄れば、もともとは格闘技の世界で使われていた表現らしい:「腕が折れても心が折れなければ・・・」

小生としては「折れる」というのは長いものが曲げられて壊されたときに使われる表現のような気がする。心は長細くないような感じがするから、どうもしっくりこないなあ。

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2010.01.13

映画「アバター」見てきた

月曜日に宇部の「シネマ・スクエア7」に行き、話題の映画、「アバター」(3D字幕版)をツマと見てきた。

本来は日曜日(1月10日)の夜9時上映分を見ようと思っていたのだが、満席でアウト。その場で翌日昼12:30からの上映分を予約したのである。

アバターの詳しい内容は公式ホームページWikipediaを見てもらうこととし、小生の感想だのメモだのを短く記す:

  • まず技術革新がすごい。CGと3Dの技術はもはやここまで来たのかという感じ
  • ただし、配布される3Dメガネはレンズが汚れていることがあり、ちゃんとフキフキしてから見ないと、画面に霞がかかって見えるので注意
  • ストーリーは単純(資源を狙う人類(スカイピープル)、悪い奴。衛星パンドラの自然と調和して暮らす先住民ナヴィ、いい人たち)だがエンターテイメントなんだからそれで良い
  • 先住民たちとの交流という点では「ダンス・ウィズ・ウルブズ」を、開発により脅かされる先住民という点では「エメラルド・フォレスト」を思い出した
  • エイリアン物といえば、大御所のシガニー・ウィーバーが研究責任者グレースとして登場
  • 人類は常温超電導物質アンオブタニウム(1キロあたり2000万ドル)が欲しくて先住民を追い払おうと思っている
  • 衛星パンドラの岩山が空中に浮いていたりするのは、超電導マイスナー効果のせいらしい

資源開発会社の傭兵隊(海兵隊)が発射したガス弾が飛んできたときは、おもわず避けてしまった。

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2010.01.12

次世代スパコン不用(不要)論

ちょっといい話。次世代スパコン不用(不要)論に新たな材料が・・・。

円周率ケタ数で新記録、仏技術者が一般パソコンで」(2010年1月12日、読売新聞)
フランス人デジタルテレビ関連技術者ファブリス・ベラール(Fabrice Bellard)氏がデスクトップ型パソコン(2000ユーロ程度)で円周率を2兆6999億9999万桁まで計算し、世界記録を更新したとのこと。

同氏のホームページはここだが、2.7兆ケタ全部をダウンロードしようなどという勇気はない。

小生の言う「次世代スパコン不用(不要)論」は正確に言うと、例の事業仕分けで引っかかった次世代スーパーコンピューター開発の問題の事を指す。スパコンを作るな、というよりも金がかかりすぎというのが問題である。

次世代スパコン開発者責任者の目的はスパコンに巨額の投資を行ってもらうことによって、理研や富士通の開発者や建築設備工事関係者にオマンマを食わせるという点にあり、「世界一」というのはお題目に過ぎない。蓮舫先生は叩くところが違っていた。予算担当者や開発者責任者は雇用確保という点で堂々と論陣を張れば良かった。

次世代スパコンが高すぎるんじゃないかと言う話としてはこんなのが有名:
長崎大学のスーパーコンピュータがIEEEの「ゴードン・ベル賞」(価格性能部門)を受賞
3800万円で地球シミュレータを凌駕するスーパーコンピュータを作っちゃったという話。

かつて20万円でスパコンを作った事例もあり、金より知恵ということである。

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2010.01.10

【Victoria Revolutions AAR】スウェーデンの歴史その4: The golden age

安定と充実の15年:黄金期の始まり(1910年10月~1926年2月)
 政権:自由会衆党(~1911年11月)、アルマナ・バルマンズ組合(1911年11月~1916年8月)、自由会衆党(1916年8月~1921年5月)、ボンデ組合(1921年5月~1926年2月)、自由会衆党(1926年2月~)
 1910年の終わりから1926年の初めまでの15年間余りを、スウェーデン国民は「安定と充実の15年」として記憶している。

 長期にわたり我が国と対立していたロシアは日本との戦争に明け暮れ、軍事的にも経済的には我が国に遠く及ばない国となっていた。

 イタリアはスイス併合の結果、ドイツと国境を接することとなり、ようやくその領土拡張政策が過ちであったことに気付いた。我が国の領土であるヴィテルボを奪おうとすれば、それはドイツの怒りを招き、イタリアに破滅的な結果をもたらすであろう。

 外国からの脅威を受けずに済んでいる間、政府は海外植民地における第一次産業の発展、交通網の拡充に励んだ。新領土デンマークでは旧デンマーク軍兵士の除隊と工員への職種転換を進め、工業の発展を促した。

1920年8月20日現在のスウェーデンの状況
 国威: 505
 工業力: 1443
 軍事力: 70 (常備軍32師団、予備34師団、艦隊27隻)
 ランキング第7位(列強)
 人口: 35,749,000
 現有資金: 162,907

列強の順位
 1位 イギリス
 2位 ドイツ
 3位 アメリカ
 4位 日本
 5位 イタリア
 6位 フランス
 7位 スウェーデン
 8位 スペイン

 この平和な時代、軍部ではある計画が立案されていた。ヴィテルボを足掛かりに中部イタリアに領土を広げようとする計画である。財政を脅かさない程度に常備軍・予備役兵の拡充、軍艦の建造が安定したペースで進められた。1925年9月、「国防演習」との名目で動員令が発令され、大量の兵士がヴィテルボに輸送された。

1925年7月8日現在のスウェーデンの状況
 国威: 519
 工業力: 1689
 軍事力: 83
 ランキング第7位(列強)
 人口: 39,468,000
 現有資金: 509,338

192507081
ヨーロッパのスウェーデン領(1925年7月8日)

192507082
アフリカ、アラビア、インドのスウェーデン領(1925年7月8日)

イタリア分割戦争(1926年2月~1927年8月)
 政権:自由会衆党
 秩序を国是とする我が国では、軍部がクーデターを起こして、自分たちに都合が良い政権を樹立するようなことはない。逆にいえば、非戦主義を標榜する政党が政権に就いた場合、防衛予算が制限され、軍は自由に行動をとれなくなる。予備役兵をヴィテルボに待機させつつ、軍部は選挙結果に注目していた。

1926年2月1日、自由会衆党が選挙に勝利した。戦争継続に必要な予算が確保されたことを確認した軍部首脳は政府に戦争開始を進言した。

同月25日、ついに我が国はイタリアに対して宣戦を布告した。「安定と充実の15年」の間に強化された我が海軍はボニファシオ海峡とティレニア海とでイタリア海軍に対し勝利を収めた。これによって、イタリア海軍はナポリ港に閉じ込められることとなった。陸上では13月4日、我が軍がローマに侵攻、翌4月17日、ローマを陥落させた。 この後、我が軍はイタリア各地で快進撃を続ける:6月8日グロッセート、8月16日カリアリ、8月19日ルッカ、9月26日メッシナ、10月27日カタニア、11月19日パレルモ、12月20日ジェノヴァ、1927年1月21日マッサ、と各地をイタリアから解放した。

 イタリアは敗北を認め、1927年8月2日、和平が成立した。我が国はフィレンツェ、リミニ、ルッカ、ラクイラ、アンコーナ、シエナ、リヴォルノ、ペルージア、グロッセートを得た。中部イタリア(トスカーナ、ウンブリア等)が我が国の領土となったことで、イタリアは南北に分断された。またそれだけでなくトスカーナやウンブリアの工業力を失ったことにより、国威を大いに下げることとなった。

19270805
イタリア分割戦争終結後の中部イタリアの状況

1927年8月5日現在のスウェーデンの状況
 国威: 553
 工業力: 2132
 軍事力: 84 (常備軍33師団、予備38師団、艦隊55隻)
 ランキング第6位(列強)
 人口: 50,656,000
 現有資金: 500,469

列強の順位
 1位 イギリス
 2位 ドイツ
 3位 アメリカ
 4位 フランス
 5位 日本
 6位 スウェーデン
 7位 イタリア
 8位 オスマントルコ

The golden age(1927年8月~1935年12月)
 政権:自由会衆党
 1929年5月25日、我が国とドイツとの軍事同盟が失効した。だが、我が国はドイツの後ろ盾がなくてもイタリア、あるいはロシアと渡り合える国力を蓄えていたので、とくに問題は覚えなかった。しかし、念には念をということがあるので、ドイツとの友好関係を保つようにしていたところ、同年12月21日にはドイツから独立保証を獲得することができた。

 中部イタリアを失ったイタリアが近いうちに復讐戦に打って出ることは確実だったので、我が国はイタリアと国境を接するプロビンスにおいて要塞建設を進め、デンマークやイタリア出身の正規兵を配備した。

 1934年5月15日、イタリアが我が国に宣戦を布告した。と、同時にドイツは我が国の側に立ってイタリア領旧スイスに侵攻を開始した。

 我が国の海軍は6月10日リグリア海で、6月17日ボニファシオ海峡で戦い、圧倒的な勝利を収めた。制海権を掌握したのち、我が軍は敵首都ローマへの上陸を敢行、1か月の戦闘の後、10月11日、ローマを陥落させた。我が国としてはこれ以上の領土拡張の意志はない。そこで、イタリアに対し、賠償金を条件とする和平を提案した。ドイツとの戦いに苦しむイタリアは、10月14日、我が国の寛大なる和平提案を受諾した。

 ドイツとイタリアの戦いは1935年6月28日に終結した。イタリアはドイツにルツェルン、チューリヒを譲ることとなった。

193510061
1935年10月6日の中部イタリアの状況

1935年10月6日現在のスウェーデンの状況
 国威: 603
 工業力: 2702
 軍事力: 156
 ランキング第4位(列強)
 人口: 57,180,000
 現有資金: 390,118

列強の順位
 1位 イギリス
 2位 アメリカ
 3位 ドイツ
 4位 スウェーデン
 5位 フランス
 6位 日本
 7位 イタリア
 8位 スペイン

193510062
列強の状況

工場(1935年10月6日)
 イェータランド
  缶詰工場 5/5
  製紙工場 5/5
  小火器工場 5/5
  爆薬工場 5/5
  大砲工場 5/5
  汽船建造所 10/10
  高級服工場 5/5
  家具工場 5/5
 スヴェアランド
  製鉄所 5/5
  弾薬工場 5/5
  小火器工場 5/5
  セメント工場 5/5
  高級家具工場 5/5
  自動車工場 10/10
  燃料精製所 5/5
 トスカーナ
  ガラス工場 5/5
  機械部品工場 5/5
  織物工場 5/5
  衣料工場 5/5
  汽船建造所 5/5
 ウンブリア
  ワイナリー 5/5
  製鉄所 5/5
  製材所 5/5
  織物工場 5/5
  機械部品工場 5/5
  衣料品工場 5/5
 ノルランド
  製材所 5/5
  製紙工場 5/5
  家具工場 5/5
  高級家具工場 2/5
 シュラン・フェーン
  弾薬工場 5/5
  肥料工場 5/5
  織物工場 5/5
  蒸留酒製造所 5/5
 アケルフス
  製材所 10/10
  高級家具工場 5/5
  家具工場 5/5
 ベルゲン
  肥料工場 5/5
  織物工場 5/5
 ユトランド
  缶詰工場 5/5
  衣料品工場 5/5
 フィンランド
  汽船建造所 5/5

エピローグ
 1935年12月31日。
 ゲームは終了し、わがスウェーデンは世界で4番目の地位を占めることとなった。

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【Victoria Revolutions AAR】スウェーデンの歴史その3: 防衛戦争からデンマーク併合まで

第二次対伊防衛戦争・第二次対露防衛戦争(1887年6月~1891年6月)
 政権:ランドマナ党(~1888年2月)、保守党(1888年2月~)
 統一後のイタリアには領土拡大の意志がありありとみられた。1886年にはあろうことか永世中立国であるスイスを侵略、同年12月14日、イタリアはスイスからスィテンとベリンツォーナを得た。スイス国威を300失った。勢いに乗るイタリアがヴィテルボ奪還に動き出すのは明らかだった。

 1887年6月14日、ついにイタリアが我が国に宣戦を布告した(第二次対伊防衛戦争。我が国では第三次イタリア統一戦争の後半を第一次対伊防衛戦争とみなしている)。7月6日にはイタリア陸軍がヴィテルボに侵攻、9月26日我が国の海軍がイタリアとボニファシオ海峡で戦って敗北した。我が国がドイツから独立保障を得たのは10月3日でこの戦争には間に合わなかった。 我が国はヴィテルボ防衛の援軍を送ったものの、10月16日には壊滅し、11月4日にはヴィテルボが陥落した。我が国は専守防衛方針の下、海外派兵用の輸送艦隊を準備していなかった。これがヴィテルボへの大量派兵の障害となり、結果としてヴィテルボ失陥へとつながった。

 翌1888年6月、イタリア軍は我がアラビア半島植民地に突如上陸。17日にマリヤーを奪取した。後手に回ってしまったものの、我が国は数少ない輸送船をまずマダガスカルに送り、その地で植民地兵を乗せ、アラビア半島に赴かせることにした。植民地兵は約2年後の1890年3月9日にマリヤーをイタリアから解放した。

 翌1889年7月28日、もう一つの仮想敵国であるロシアが我が国に宣戦を布告した(第二次対露防衛戦争)。ここでドイツによる独立保障が機能した。同日、ドイツが我が国の側についてロシアに宣戦を布告したため、ロシアの戦力は大幅に殺がれることとなった。

 初戦ではトルニオが10月4日に、ルーレオが11月19日にロシアに奪われた。オウルでは守備軍が踏みとどまっていた。我が国はオウルに援軍を送るとともにフィンランド方面から反撃に出た。

 1890年1月8日、我が軍はオウルでロシア軍に勝利した。ヴァーサ侵攻軍は1月12日から2月15日にわたり5度、ロシア軍と交戦、いずれも勝利を収めた。2月17日、我が国はヴァーサをロシアから解放した。
 1890年2月、我が軍はルーレオをロシアから解放した。以後、トルニオ、ヴァーサ、コーラ、カンダラクシャを巡って一進一退の戦いが続いた。

1890年5月3日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 186
 工業力: 500
 軍事力: 27
 ランキング第8位(列強)
 人口: 19,806,000
 借款: 32000
 戦争による消耗: 26.3%

189005031
トルニオにおける戦い

189005032
同盟国ドイツとロシアの戦い

 イタリアはヴィテルボの占領を続けていたが、それ以上に事態を進展させることはできなかった。1890年12月5日、我が国とイタリアとの間で「現状への復帰」を条件とする和平が成立した。ヴィテルボは再びスウェーデンに帰った。

 ロシアは我が国の奮戦、そしてドイツの苛烈な攻撃を前に徐々に戦意を失っていた。1891年6月14日、我が国とロシアとの間で「現状への復帰」を条件とする和平が成立した。

 こうして4年にわたる防衛戦争が終了した。

 なお、ドイツとロシアとの間の和平は1892年9月9日に成立し、ロシアはラドム、ビヤウィストク、カプスカス、スヴァウキ を、ウーチ、スキェルニェウィツェ、キエルツェ、プウォツク、カリシ、リバヴァ、シャヴリ、ロムツァをドイツに割譲した。

財政再建および瑞独軍事同盟の締結(1891年7月~1898年7月)
 政権:保守党(~1992円11月)、ガムラランドマナ党(1992円11月~1897年8月)、農民組合(1897年8月~)
 2度にわたる、イタリア、ロシアとの戦いの結果、我が国は莫大な借金を抱えていた。平和条約の有効期間中に財政再建を果たすことが我が国最大の課題であった。また、イタリア、ロシアから容易に戦争を仕掛けられないようにするためにはドイツと軍事同盟を結ぶ必要があった。

 第二次対伊防衛戦争・第二次対露防衛戦争中の1890年5月、我が国の西アフリカ植民地ビサウで反乱がおこり、同地は叛徒に占領されていた。この地を奪還するため、1893年10月8日、正規兵をビサウに派兵し、10月27日同地を解放した。アフリカ、アラビア、インド、東南アジアに点在する我が国のすべての植民地を管理し続けることは困難を極める。そこで、我が国はビサウを放棄、ドイツに割譲することによってドイツとの軍事同盟締結を進めることとした。

 1893年11月4日、我が国はドイツにビサウを譲渡し、その代わりに技術供与を受けるという協定を結んだ。これにより、我が国とドイツとの有効度は最大値に達した。そして翌1894年5月7日我が国とドイツは相互防衛条約(瑞独軍事同盟)を締結した。この軍事同盟は有効に機能し、我が国とイタリア、ロシアとの平和条約が失効した後も両仮想敵国からの侵攻は起こらなかった。瑞独軍事同盟はこれ以後、1929年5月25日まで35年間続いた。

1893年11月4日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 191
 工業力: 477
 軍事力: 32 (常備軍20師団、予備軍24師団、艦隊6隻)
 ランキング第9位(独立国)
 人口: 20,322,000
 借款: 44260

18931104
ドイツに割譲する直前のビサウ(反乱鎮圧直後)

 この時代、イタリアはスイス併合の意志をむき出しにしていた。我が国との和平成立直後にスイスに宣戦を布告し、1892年8月4日にはバーゼル、チューリヒ、クール、ルツェルン、ジュネーヴを獲得していた。スイスは国威を300失った。さらに1898年3月、イタリアはスイスに対し3度目の宣戦布告を行い、ついにスイス併合を完了させた。この事態を見て、我が国民はいずれイタリアに鉄槌を加えなくてはならないとの意識を強くした。

 農民組合政権下、我が国は財政の黒字化を果たした。この余剰の資金は鉄道敷設、工場建設、海軍の近代化に充てられた。

デンマーク併合(1898年8月~1910年10月)
 政権:農民組合(~1907年2月1日)、自由会衆党(1907年2月1日~)
 1898年8月18日、デンマークが財政破綻したとの情報が入った。無能な政府の下にいるデンマーク国民は不幸である。政府と国民は、同じスカンジナビア人であるデンマークの民を救うとともに、彼らを我が国の一員とすることで我が国に繁栄をもたらすべきであると考えた。

1898年9月6日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 188
 工業力: 543
 軍事力: 34 (常備軍24師団、予備24師団、艦隊6隻)
 ランキング第9位(独立国)
 人口: 20,884,000
 現有資金: 3949

18980906
今まさに出港しようとする我が国のまことに小さな艦隊

 1898年9月6日、我が国はデンマークに対して宣戦を布告した(第一次スカンジナビア統一戦争)。財政に悪影響を及ぼさないため、戦争には常備軍のみが動員された。9月17日、我が軍がデンマークを相手にスドーレベルドで戦い、勝利した。 これによって海峡を渡ることが容易になった。1899年1月20日、我が軍がオルボアに上陸、2月3日に同地をデンマークから解放した。2月15日には別働隊が首都コペンハーゲンに到着し、交戦状態に入った。コペンハーゲンでの戦闘が続く中、デンマークから和平提案があり、1899年4月6日、我が国とデンマークとの間で和平が成立した。オーゼンセ、オルボア、ヴィボルが我が国の領土となった。新領土において我が国は鉄道敷設、工場の再建を進めた。

 和平条約失効後の1905年1月6日、我が国はデンマーク併合を進めるべく、再び宣戦を布告した(第二次スカンジナビア統一戦争)。1905年4月14日、我が軍はコペンハーゲンをデンマークから解放した。今回はオルフスを我が国へ割譲するとの条件で和平が成立した。デンマークに残るのはコペンハーゲンのみとなった。

 そして、1910年8月7日、最後の戦いが始まった(第三次スカンジナビア統一戦争)。1910年10月9日、デンマークは我が国に併合された。

1911年5月12日現在のスウェーデンの状況
 国威: 405
 工業力: 1003
 軍事力: 43
 ランキング第7位(列強)
 人口: 30,094,000
 現有資金: 57167

列強の順位
 1位 イギリス
 2位 ドイツ
 3位 アメリカ
 4位 日本
 5位 フランス
 6位 イタリア
 7位 スウェーデン
 8位 カナダ

19110512
併合後のデンマークの様子および再建された我が国の艦隊(1911年5月12日)

 このスカンジナビア統一戦争中に起こった国内外の出来事
 国内
 1901年8月16日、“ナイル川の水源はいずこ?”という論争が発生。健全財政の維持が国是である以上、国威が低下しようともこのような馬鹿げた冒険への支援は行わないことを決定した。

 1901年12月11日、“ノーベル賞”が制定され、国威が大いに増した。

 国外
 1900年1月、“義和団の乱”が発生。列強が中国を蚕食するきっかけとなる。このとき中国に宣戦を布告したロシアに対し、日本が中国の側についてロシアに宣戦を布告した(第一次日露戦争)。この戦争は1903年7月11日に終結し、千島列島、ウドゥスコエ、サンジン、サハリンオーラ、ハバロフスク、ニングタが日本に割譲される。1907年4月にはふたたびロシアと日本との間で戦端が開かれた(第二次日露戦争)。この戦争は数十年にわたって継続する大戦争となり、日露両国の発展を大いに妨げることとなった。

 1902年5月11日にはオーストラリアが、1908年11月30日にはニュージーランドがイギリスから独立した。

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2010.01.08

【Victoria Revolutions AAR】スウェーデンの歴史その2: イタリア統一戦争と財政の悪化

カンボジア戦争後も我が国は世界6位と以前のままの地位を維持していた。

1862年1月14日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 64
 工業力: 276
 軍事力: 29
 ランキング第6位(列強)
 人口: 8,625,000
 現有資金: 5138

列強の順位
 1位 イギリス
 2位 プロイセン
 3位 フランス
 4位 アメリカ
 5位 ロシア
 6位 スウェーデン
 7位 オーストリア
 8位 オスマントルコ

1963年から我が国はイタリア統一を巡る動きに巻き込まれ、やがてそれは我が国に危機をもたらすこととなる。

第一次イタリア統一戦争(1863年8月~1864年11月)
 政権:保守党(~1864年5月)、自由党(1864年5月~)
 1863年8月、両シチリア王国がイタリア統一に乗り出した。両シチリア王国の前に立ちはだかったのは教皇領とサルデーニャ・ピエモンテである。両シチリア王国をフランスが、教皇領をオーストリアが支援した。我が国はクリミア戦争以来2度にわたってサルデーニャ・ピエモンテと軍事協定を結んでいる。1863年8月12日、我が国はサルデーニャ・ピエモンテの側についてフランス、両シチリア王国に宣戦を布告した。

 我が国の艦隊の一部がフランス海軍によって壊滅させられるなど、いくつかの危機があったが、我が国はシチリア島への上陸を成功させ、12月29日パレルモ、1864年1月5日カタニア、2月3日メッシナの順に攻め落とした。

 1864年4月24日、我が同盟国、サルデーニャ・ピエモンテはフランス・両シチリア連合に降伏した。シャンベリ、アヌシーがフランスに、ジェノヴァ、パルマが両シチリア王国に割譲された。

 サルデーニャ・ピエモンテの敗北によって我が国参戦の大義が失われたが、我が国としては何も得ずに撤退するつもりはない。シチリア全島の占領を続けつつ、両シチリア王国に対して領土割譲を求め続けた。長い交渉の結果、1864年11月22日、両シチリア王国はヴィテルボの割譲を認めた。ヴィテルボが我が国の領土となったことは、数十年後、我が国が躍進する足掛かりとなる。

1864年11月22日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 58
 工業力: 288
 軍事力: 23
 ランキング第7位(列強)
 人口: 9,871,000
 現有資金: 517

18641122
ヴィテルボ獲得直後の様子

世界情勢(1863年5月~1871年2月)
 政権:自由党(~1869年2月)、保守党(1869年2月~)
 我が国がイタリア統一戦争に関与し続けている間、世界では3つの大きな動きがあった。一つは日本における明治維新(1863年5月20日)、一つはドイツ統一(普墺戦争1866年1月18日~1867年6月4日、普仏植民地戦争1867年11月4日~1869年6月10日、ドイツ帝国成立1871年2月6日)、そしてもう一つはカナダの独立(1867年6月20日)である。

1871年8月7日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 46
 工業力: 345
 軍事力: 29
 ランキング第7位(列強)
 人口: 10,567,000
 現有資金: 2761

同時期の我が国工業の様子
 ノルランド
  製材所 5/5
 スヴェアランド
  製鉄所 4/5
  弾薬工場 5/5
  小火器工場 1/5
  セメント工場 3/5
  高級家具工場 0/5
 イェータランド
  缶詰工場 5/5
  製紙工場 5/5
  家具工場 5/5
  小火器工場 2/5
  爆薬工場 3/5
  大砲工場 0/5
 アケルフス
  製材所 9/10
  高級家具 0/5
 ベルゲン
  肥料工場 4/5

第二次イタリア統一戦争(1871年10月~1874年4月)
 政権:保守党
 1871年10月8日、両シチリア王国がサルデーニャ・ピエモンテに対して宣戦を布告した。フランスは今回はサルデーニャ・ピエモンテ側についた。我が国は当時、サルデーニャ・ピエモンテとの軍事同盟が失効したばかりであったが、先方の依頼により1872年1月15日に再締結。同日、我が国は両シチリア王国に対して宣戦を布告した。我が国はヴィテルボの守備に努めると同時にサルデーニャ・ピエモンテ領アレッサンドリア、ミラノでの防戦にあたった。

18731105
イタリアにおける我が国の奮戦

 1874年4月20日、両シチリア王国とサルデーニャ・ピエモンテの間で和平が成立。ジェノヴァ、パルマ がサルデーニャ・ピエモンテに返還された。

1874年12月23日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 74
 工業力: 355
 軍事力: 31
 ランキング第8位(列強)
 人口: 10,907,000
 現有資金: 1150

モザンビーク戦争(1875年2月~1877年12月)
 政権:保守党
 第二次イタリア統一戦争が終わるころから、我が国はマダガスカルの対岸、アフリカへの進出を企てていた。目指すはポルトガル領モザンビークである。当時、ポルトガルに対するイギリスからの独立保障が失効しており、ポルトガルを支援する国は存在していなかった。我が国は第二次イタリア統一戦争終結直後に輸送艦隊をマダガスカル島沿岸に移動させ、植民地兵の搭乗を始めた。

 1875年2月20日、我が国はポルトガルに植民地戦争の宣戦を布告した。5月13日モザンビーク、5月20日ポートアミーリア、6月5日ソファラ、と各地をポルトガルから解放したが、その後、ポルトガル植民地軍の抵抗・我が国輸送艦隊の敗北により事態は膠着した。翌1876年に入って再び戦線が動き始め、1月9日ロレンソマルケス、1月17日イニャンバネ、4月11日ザンディアが陥落した。

 ザンディア陥落後、我が国はポルトガルとの和平交渉を開始した。1877年12月16日にようやく交渉が成立し、イニャンバネ、ソファラ、モザンビーク、キリマネ、モサメデス、ポートアミーリア、ベンゲラ、サンパウロデロアンダ、ゴア、ビサウ、ティモール、サントメプリンシペ、カポヴェルデ諸島が我が国に割譲された。広大な領土を手に入れたものの、我が国は各植民地で発生する暴動に悩まされることとなった。

第三次イタリア統一戦争・第一次対露防衛戦争(1879年11月~1882年10月)
 政権:保守党
 1879年11月7日、両シチリア王国はイタリア統一を狙って、サルデーニャ・ピエモンテに対する三度目の戦争を開始した。フランスと我が国はサルデーニャ・ピエモンテを、オーストリアは両シチリアを支援した。

 我が国がイタリア派兵の準備をしている最中、危機が訪れた。1880年5月17日ロシアが我が国に宣戦を布告してきたのである。我が国は動員令を発令、対露防衛に備えた。ロシアが我が国の要塞群を攻めあぐねている間、我が軍はヴァーサに進出し勝利を収めた。

 しかし、我が軍がヴァーサで勝利を収めたまさにその日(1880年9月30日)、サルデーニャ・ピエモンテが両シチリアに併合され、イタリア王国が成立したのである。強大化したイタリアを相手にヴィテルボを守り抜かなくてはならなくなった。

 我が国は粘り強く防御に努めつつ、イタリアとロシアに対し「現状への復帰」を条件とする和平交渉を繰り返した。その間、戦争による消耗は拡大し、財政は悪化の一途をたどっていた。

 1882年1月10日、ようやくイタリアとの間で和平が成立した。ヴィテルボは失われずに済んだ。そして1882年10月28日にはロシアとの間にも和平が成立し、我が国はようやく存亡の危機を逃れた。

 この2つの戦争の後、我が国はこれまでの領土拡大方針を改め、要塞建設と財政再建に専念することになった。

戦間期の政策(1882年11月~1887年6月)
 政権:保守党(~1883年5月)、ランドマナ党(1883年5月~)
 第三次イタリア統一戦争および第一次対露防衛戦争から立ち直るため、我が国では以下の3つの政治方針が立てられた。

 一、財政方針。悪化した財政を立て直すため、税収を増やし、支出を抑制する。
 一、外交方針。他国が新たな戦争を引き起すことを防ぐ。
 一、軍事方針。戦争勃発時には勝てなくとも負けないようにする。

 これらの政治方針の下、財政面では、関税の引き上げ、治安維持、社会予算の抑制が実施された。また陸軍維持予算も引き下げられ、常備軍一個師団あたり2000人程度が削られた。国庫に蓄積された金はすべてほとんどが国債の償還に充てられた。

 外交面では対岸の大国、ドイツとの関係強化が図られた。実は第三次イタリア統一戦争前から我が国はドイツとの間で関係改善や技術の交換を図ってきた。これらの努力により、第一次対露防衛戦争中の1881年4月27日、我が国はドイツから独立保証を得ていた。ドイツを我が国の後ろ盾とし、仮想敵国であるロシア、イタリアから攻められにくい状況を構築し、維持することに努力を払うこととなった。

 軍事方針は一言でいえば専守防衛である。ロシアに対してはフィンランド地方のトゥルク、ラップランド地方のトルニオ、オウル、カヤーニに強大な要塞を構築し、各プロビンスに正規兵と植民地兵からなる3個師団を常駐させることで対抗し、イタリアに対してはヴィテルボに要塞を構築し、やはり正規兵と植民地兵からなる3個師団を常駐させることで対抗することとした。

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【Victoria Revolutions AAR】スウェーデンの歴史その1: マダガスカル戦争からクリミア戦争まで

ここ数カ月、断続的にプレーしてきた"Victoria Revolutions"が終了したので、After Action Reportを書くことにした。小生がプレーしたのはスウェーデン。わからない人にはわからない内容である。

初期設定

 難易度: 普通
 AI: 普通
 ゲームスピード: 標準
 情報の不確実性: オン
の設定にてスタートした。

税金は全階級で50%、教育と防衛の予算はMAX、治安維持と社会予算はゼロとした。

今後発生するであろう各種イベントに対する方針は以下のとおりである:
 市場介入に関する議論->“自由放任主義を明確に主張する”
 貿易問題に関する議論->“自由貿易を明確に主張する”
 宗教に関する議論->“宗教は個人の問題であって政治の問題ではない!”
 報復主義者が○○に結集->“防衛費を増やそう!”
 ○○で「軍国主義反対!」の大合唱->“防衛費を削減しよう!”
 国防に関する議論->“帝国主義から祖国を守るためには強力な防衛体制が必要だ!”

 1836年時点の政権政党は保守党。経済政策として国家資本主義を採っているので、国家主導で工場建設が可能である。そこで、後々要塞建設の際に必要だろうということでスヴェアランドにてセメント工場の建設を始めた。

1836年7月28日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 3
 工業力: 157
 軍事力: 12
 ランキング第6位(列強)
 人口: 4,309,000

最初の植民地(1838年2月~1843年11月)
 政権:保守党
 1838年2月25日、戦力を蓄えたわがスウェーデンはマダガスカルに宣戦を布告、海上に待機させていた3個師団を同島に上陸させた(第一次マダガスカル戦争)。約4カ月の戦いののち、我が軍は全島を占領した。6月21日、マダガスカルはバムバカ、メナベを我が国に割譲するという条件で和平に応じた。

1842年10月4日現在のスウェーデンの状況:
 国威: 2
 工業力: 183
 軍事力: 14
 ランキング第6位(列強)
 人口: 5,262,000

18421004
第一次マダガスカル戦争後のマダガスカル島

 それから5年後の1843年6月26日、我が国は再びマダガスカルに宣戦を布告した(第二次マダガスカル戦争)。4か月あまりの戦いの後、マダガスカル全島はわが軍の占領下に入った。1843年11月3日、我が国はマダガスカルを併合した。今後マダガスカルは我が国にとって重要な植民地兵供給拠点となることだろう。

 マダガスカル戦争中と戦後、国内では政治改革が進められた。1942年には普通選挙、1946年には自由報道が認められた。

1846年1月16日現在のスウェーデンの状況:
 国威: -11
 工業力: 206
 軍事力: 17
 ランキング第6位(列強)
 人口: 6,535,000
 現有資金: 1183

18460116
第二次マダガスカル戦争後のマダガスカル島

汎スカンジナビア主義の興隆と終焉(1847年1月~1848年4月)
 政権:保守党
 1847年1月、隣国デンマークと我が国で汎スカンジナビア主義なる民族主義が急伸し始めた。また、スカンジナビア主義者たちは「シュレスヴィヒはデンマーク固有の領土である」との主張を始めた。これは大国プロイセン、オーストリアを刺激する危険な主張である。

 結局、1847年1月16日にオーストリアが「シュレスヴィヒ問題」を巡ってデンマークとの開戦に踏み切った。さらに同月27日にはプロイセンとハノーファーとがデンマークに対して宣戦を布告した。「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の始まりである。

 デンマークを支持するのはホルシュタインだけであった。我が国はどちらの陣営に与するか、選択を迫られた。以前からデンマークの独立を保証する旨、宣言していた我が国であるが、プロイセン、オーストリア両大国を敵に回す愚は避けたい。結局、我が国はデンマークに対する独立保証を破棄し、4月15日にプロイセンおよびオーストリアと軍事同盟を締結、同日、デンマーク, ホルシュタインに宣戦を布告した。国威は大幅に失われたが、国家存続のためにはやむを得ない。

 戦争は約一年続き、デンマークの敗戦に終わった。1848年4月12日、プロイセンとデンマークとの間で、5月10日、オーストリアとデンマークの間で和平が成立した。デンマークはリベ、ゴットホープ、レイキャヴィク、ヴァージン諸島、フレンスブルクを プロイセンへ割譲した。この戦争の結果、我が国とデンマークとが平和裏に統合する可能性は完全に失われた(汎スカンジナビア主義の終焉)。

クリミア戦争(1853年7月~1856年12月)
 政権:保守党
 1853年7月4日、イギリス・オスマントルコ・セルビア・ヴァラキア・モルダヴィア陣営とロシアとの間でクリミア戦争が始まった。ロシアの外交努力によってセルビア・ヴァラキア・モルダヴィアは開戦2日後の7月6日に戦争から離脱したが、8月1日にはフランス、8月6日には我が国、8月11日にはサルデーニャ・ピエモンテがロシアに宣戦を布告した。我が国には常備軍7個師団と予備役兵20個師団がある。いかに大国ロシアが相手であるとはいえ、勝機はある。

1853年7月13日現在(開戦直前)のスウェーデンの状況:
 国威: 9
 工業力: 198
 軍事力: 30
 ランキング第6位(列強)
 人口: 7,084,000
 現有資金: 7849

185307131
ラップランド方面侵攻プラン

185307132
フィンランド方面侵攻プラン

 開戦後初の戦いは8月13日にカルマル海峡で始まった。我が国の艦隊がロシアの艦隊と交戦を始めたのである。残念ながらこの海戦では我が国は敗北した。

 陸戦は連戦連勝だった。ストックホルムから海峡を横断した我が陸軍は9月2日、マリーハムンを占領した。また10月29日にはマルメーから海上輸送された第3軍団がヘルシンキに上陸、11月16日に同地をロシアから解放した。その後、12月4日タンペレ、12月6日トゥルク、12月16日トルニオ、翌年1月5日ヴァーサ、1月15日コトカ、1月16日ミッケリ、2月1日オウル、というようにわが軍は各地をロシアから解放した。

 1854年2月19日イギリス、フランス、そして我が国の艦隊がフィンランド湾で敵艦隊と接触した。そして同月22日、3カ国連合艦隊はロシア艦隊に勝利した。クリミア戦争における我が国初の海戦の勝利である。この勝利によってフィンランド湾から敵首都正面への上陸作戦が可能となった。

 2月27日コーラ、3月8日カヤーニ、3月11日クオピオ、というように我が国は新たに3つの地域を占領下に置いた。そして3月13日我が国は満を持して第3軍団をサンクトペテルブルグに上陸させた。しかしロシア軍の抵抗はすさまじく、戦闘は一進一退という有様。数度にわたって援軍を送り続けた結果、8月9日にようやくサンクトペテルブルグを陥落させることができた。

 敵首都での戦いが続く中、他の戦線では我が軍は前進を続けていた。1854年4月14日セゲシャ、5月15日ポヴェネック、6月3日カンダラクシャ、6月15日ヴィボルグ、とさらに4つの地域をロシアから解放した。

18540821
我が軍に占領されたロシア各地

 1855年1月27日に我が軍がアルハンゲリスクを占領して以来、戦線に大きな進展は見られなくなっていた。本国のスヴェアランドでは報復主義者、反軍国主義者の両派が集会を開くなど、国論が揺れていた。戦争による消耗は56%を超え、国費もそろそろ払底しつつあった。そろそろ戦争を終結に向かわせなくてはならない。我が国はロシアに大使を派遣し、比較的有利な条件での和平の可能性を探った。1855年3月21日、ロシアはマリームハン、トゥルク、トルニオ、オウル、カヤーニを我が国に割譲するという条件で和平に応じた。長い間ロシアの支配下にあったスウェーデン人、フィンランド人は本来帰属するべき国へと戻ったのである。

185503211
クリミア戦争で獲得した新領土

 なお、我が国離脱後もイギリス・トルコ連合とロシアの間でクリミア戦争は続き、1856年12月15日にようやく終戦を迎えた。ロシアはチェルカッシ、メリトポリ、バルタ、コルサンをイギリスへ、チェルコフ、ベリツィ、ガンザ、キシナウ、オデッサ、クタイシ、ポーチ、イスマイル、エレヴァンをオスマントルコへ割譲した。

アブダビ戦争(1860年12月~1861年4月)
 政権:保守党
 1850年代、我が国はクリミア戦争やイタリアにおける小規模な戦争に関与し続け、植民地の拡大を怠ってきた。1850年代終わりからようやく余裕が生じたため、再び領土拡大を国策として掲げることとした。
 1860年12月23日、我が国はアブダビに対し宣戦を布告し、マダガスカル出身の植民地兵を送り込んだ。マリヤー、ドゥバイ、ドーハの順に占領し、1861年4月22日、アブダビ全土をスウェーデン領とした。

カンボジア戦争(1862年1月~6月)
 1862年1月1日、カンボジアが財政破綻したとの情報が入った。領土拡大のチャンスと見た我が国は、再びマダガスカルの植民地兵を集め、タイ湾南部で待機させた。そして、1862年2月16日、カンボジアに対し宣戦を布告。ペノンバン、カンボジア、ランチャンの順に攻め落とし、1862年6月14日、カンボジア全土を併合した。

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2010.01.07

義父母に虎を描いてもらった件

昨年のシルバーウィークにツマの両親に馬の絵を描いてみてもらったところ、義母が前衛的な馬を描いてくれた(「馬の絵を家族で描いてみると・・・」)。

で、1月3日に鼎泰豊(ディンタイフォン)でツマの家族と昼食をしていたとき、義父から「あらかじめ描いておいた」という言葉とともに受け取ったのが、この虎の絵である:

<虎・側面図(上:義父、下:義母による模写)>
Img001

義父は相変わらず上手い。そして義母による模写もまた相変わらず前衛的である。

「虎の顔が描きにくかった」と義母からクレームからあったので、義父はコンサートチケットの半券に虎の正面図を描いた。それにたいして義母が模写を行った結果がこれである:

<虎・正面図(上:義父、下:義母による模写)>
Img002

・・・義母が描いた虎の額の上にはタケコプターらしきものがあるのだが・・・。

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2010.01.06

「先取り」という概念を知的財産権に適用してみる

CNET Japan掲載のブログ「資本主義は終わっている」(廣田尚久)の最新記事「新自由主義に対する批判について」にの中で、「先取り」という便利な概念が使われている。

著者の解説によれば、

「先取り」とは、「価値」を生み出す前に先に取ってしまう経済現象

である。

著者は典型的な例を挙げてこの概念を説明している:

サブプライムローンの例で言えば、個人レベルで「将来の収入」を先取りし、企業レベルで「将来の利益」を先取りしたと言えば分かりやすいだろう。つまり、先取りをした段階では中身のない空っぽの「価値」、すなわち、「価値」とも言えない空虚なもので、これを私は「虚の価値」と呼んでいるが、この「先取り」された虚の価値があちこちに潜り込んで、企業の活動や人々の生活を破壊したのである。

小生が考えたのは、この「先取り」という概念は知的財産にも適用できるのではないかということである。知的財産のうち、著作権で保護されるものには当てはまらない。なぜなら、著作権で保護される著作物、いわゆるコンテンツはすでに出来上がったものであるから。小生が考えているのは「発明」のことである。

現在、発明に対して値段をつけて取引することが行われているが、実際にその発明が応用され、何らかの製品が生み出された場合には正当にその発明の価値を判断することができるだろう。

しかし、特許登録されていながら実施されていない発明というのは数多くある。ましてや出願しただけの発明は実施される見込みはほとんど無い。

にもかかわらず、出願しただけの発明が取引されたり、甚だしくは出願の前に「特許を受ける権利」が売買されたりということが実際には起こっている(TLOとか)。これもまた「先取り」の一種ではなかろうか?

アイディアだけでも商売になるような事態、つまり「先取り」が横行すれば、骨を折ってアイディアを実現化するのが馬鹿馬鹿しくなって、ものづくりの現場が崩壊してしまうのではなかろうかと小生は懸念するのである。

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2010.01.05

【ブルジュ・ドバイ完成記念】ドバイはきまぐれと傲慢さのゆえに砂の中に消滅する

小生儀、12月31日に中国から帰国、1月1日に静岡に帰省、1月3日に宇部に戻るという旅枕の毎日で疲労が蓄積し、とうとう風邪をひいてしまった次第。

1月3日には東京にいて、汐留の鼎泰豊(ディンタイフォン)でツマの家族と小龍包をつまみながら談笑したり、箱根駅伝のゴール付近で選手を応援したり、OAZOの丸善本店で立ち読みをしたりと、あれこれしていたのだが、ここでは、丸善の松丸本舗で買った本の話をしよう。

松丸本舗は松岡正剛がプロデュースしたことで知られる、特異な棚づくりで有名な店(店内店)である。そこのアジア関連の棚で見つけたのがこれ、「地獄のドバイ」である。

地獄のドバイ―高級リゾート地で見た悪夢地獄のドバイ―高級リゾート地で見た悪夢

彩図社 2008-04-25
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寿司職人としてひと旗挙げようとドバイに渡ったものの、それは叶わず、知り合いのUAE人が経営する肥料会社に就職。しかし勤め先がある日突然閉鎖され、犯罪を犯したわけでもないのにアブダビ中央拘置所送りになった…という人の話である。

読んでいると、著者の発想の安易さ(そもそも寿司職人として就職できるあてがあったわけではない)、情報不足、行動の軽率さが目立つが、著者が体当たりで行動してくれたおかげで、ドバイの暗部が明らかにされている。ドバイの支配層に阿(おもね)ながらビジネスを展開している人々には書けない内容の本である。

この本からわかるのはドバイの興隆と凋落は起こるべくして起きたということである。

ドバイは、(1)王族を頂点とする支配層のUAE人、(2)ビジネスパートナーあるいは旅行客としてお金を落としてくれるゲストたち=西洋人・日本人、(3)半奴隷的立場に置かれた外国人労働者たち、で構成されている。この本は(2)のゲストたちについてはほとんど触れていないが、(1)のUEA人と(3)の外国人労働者たちに関しては以下のようなことを語っている。

<傲慢で思慮の浅い支配層>
まず支配層のUAE人であるが、長期的視野で物を考えることのできない、つまり思慮の浅い人々である。何かを作ったり育てたりして富を得るという発想が無い。ビルを建て、転売すれば富を得ることができると考えている。芸術ですらルーブル美術館から美術品を借りれば事足りると考えている。外国人労働者たちを奴隷とみなし、職場環境を良くしようという発想はない。芝生用の水はふんだんにあるが、労働者のシャワーのための水は無い(この件については本書をよむといい)。

<それ相応の仕事しかしない外国人労働者>
外国人労働者は日給5ドル程度で働かされる。その一方で物価や家賃は高い。会社の雇用が切れるや否や、外国人労働者は拘置所送りになる(「滞在法違反」。著者もこれで拘置所送りとなった)。このような状況では真面目に働こうという意志はなくなる。そのため、建築物やインフラには手抜き工事が散見される。

著者が拘置所送りとなった後半も面白いが、その内容はこれからこの本を読む人のため触れないでおこう。

本書に刺激されてドバイの人権問題について調べてみたら、こんなのが出てきた:


Building Towers, Cheating Workers
Exploitation of Migrant Construction Workers in the United Arab Emirates
November 11, 2006
Based on extensive interviews with workers, government officials and business representatives, this 71-page report documents serious abuses of construction workers by employers in the United Arab Emirates. These abuses include unpaid or extremely low wages, several years of indebtedness to recruitment agencies for fees that UAE law says only employers should pay, the withholding of employees’ passports, and hazardous working conditions that result in apparently high rates of death and injury.

2006年の報告書だが、上述のUAE人の性格上、今でも労働環境の改善は行われていないだろうと思われる。

そういえばブルジュ・ドバイが完成したそうだが、これはそのまま砂漠の中の遺跡となるのであろう。

<追記>
タイトルは「地獄のドバイ」だが、著者が主に滞在したのはアブダビ首長国である。ドバイとアブダビは違う!という意見は当然あるだろうが、UAEの人々に共通する精神性は描かれているのではなかろうか?

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