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2009.07.09

ラッフルズの海上帝国構想と小生のポルトガル海上帝国

白石 隆『海の帝国 アジアをどう考えるか』(中公新書1551、2000年)

第1回読売・吉野作蔵賞受賞作だそうである。

19世紀以降の東南アジアの政治経済システムに興味が沸き、この本を紐解いた。

なぜ、興味が沸いたのかというと、小生はこの頃EU3に嵌っており、(ゲーム内の時間で)18世紀半ばに至り、新大陸からアフリカ南部を経て東南アジアにいたる「ポルトガル海上帝国」を築き上げたからである。

東アジアおよび東南アジアにおいてわがポルトガルが強固な立場を築くためには、セイロン、バリ・ロンボク、マカッサル、カリマンタン、ルソン、台湾といった拠点をどのように連携し運営すればよいかについてのヒントを歴史に求めたわけである。

目次


  • はじめに
  • 第1章 ラッフルズの夢
    • マラッカ/ラッフルズの「新帝国」構想/秩序形成の二つの原理

  • 第2章 ブギス人の海
    • マラッカの情景/「ブギス人の世紀」/歴史のリズム

  • 第3章 よちよち歩きのリヴァイアサン
    • 近代国家とはなにか/海峡植民地国家/オランダ東インド国家/フィリピン国家

  • 第4章 複合社会の形成
    • アブドゥッラーの自己紹介/ラッフルズの都市計画/アイデンティティの政治

  • 第5章 文明化の論理
    • 植民地世界の成立/「文明化」のプロジェクト/近代政治の誕生/リヴァイアサンの二十世紀的展開

  • 第6章 新しい帝国秩序
    • 新しい地域秩序/ジャパン・アズ・ナンバー2/上からの国民国家建設

  • 第7章 上からの国民国家建設
    • タイ――「権力集中」から「権力拡大」へ/インドネシア――「権力集中」から「権力分散」へ/フィリピン――権力分散のシステム

  • 第8章 アジアをどう考えるか
    • 「日本とアジア」vs.「アジアの中の日本」/「海のアジア」vs.「陸のアジア」/「海の帝国」/これからどこに行くのか

  • あとがき
  • 参考文献と注

じつはこの本、2000年ごろに購入したものの死蔵。今年の冬にラオスに行った際に途中まで読んで休眠。そして今再読という、ヴィンテージモノである。

第1章、第2章のキーワードの一つがマレー半島の西岸に位置するマラッカである。同地にはマラッカ王国があり、15世紀以降、香辛料貿易の重要な中心として栄えた。16世紀初頭からはポルトガルの支配下に入り、17世紀半ば~18世紀半ばはオランダ東インド会社の支配下、そして18世紀終わりから20世紀半ばまでイギリスの支配下にあった。

ラッフルズは1811年にマラッカを訪れる。ラッフルズとはあのラッフルズホテルのラッフルズである。マレー語が話せた。当時、ナポレオン戦争のドサクサにまぎれて、イギリスは東インドのオランダ領を切り崩しにかかっていた。ラッフルズは現地の有力者の調略に当たっていたが、その中で構想したのが、イギリスによる海上帝国である。この海上帝国はベンガル湾からマラッカ海峡、スマトラ、ジャワ、バリ、セレベスを経由してモルッカ諸島、オーストラリアに至る広大な海域(ここではマレーとか、東インドとか曖昧に称されている)を支配するもので、次の2つの柱によって成立する:


  • (イギリスの)東インド総督がスルタン、ラジャなどの称号を持つマレー(東インド)の諸王の上に大王(ビタラ)として君臨するという「マンダラ」システムの構築
  • 東インドの島々にある諸王国を連携し、それぞれの地域・海域における防衛と自由貿易の振興にあたらせる。すなわち、自由主義経済システムの構築

ラッフルズの海上帝国がオランダの海上帝国と最も異なるところは、現地人をパートナーと見なすか、収奪対象と見なすか、という点である。ラッフルズは、セレベス島南西半島の住民であるブギス人・マカッサル人を重要なパートナーとして選んでいる。そして、ブギス人たちと連携して中国人、アラブ人、そして新興のアメリカ人に対抗しようとしている。

というように、ラッフルズはイギリスにとっても現地人にとってもバラ色のプランを立てたのだが、実際にはこうはならなかった。

実際に成立したイギリスの海上帝国(本書では「非公式」帝国と呼ばれている)はベンガル湾からシンガポール、香港を経て上海に至るV字様の軸線上に築かれた。ラッフルズの構想と現実の海上帝国の比較を下図に示す(地図は「白地図、世界地図、日本地図が無料」からもらってきた)。

Photo

現実がラッフルズの構想と異なった理由は数々あるが、本書では次のような理由が挙げられている:


  • ナポレオン戦争後、ジャワがオランダの支配権を取り戻したこと。これによりイギリスは東インドの島々への興味を失う
  • 当時、アヘン(インド産)が対中貿易の主要輸出品となったこと。この結果、イギリスはシンガポールを中継地としてインドと中国を結ぶ貿易に集中した
  • ブギス人の交易活動が1830年代以降衰えたこと
  • 中国人裏社会(黒社会)が植民地政府のパートナーとなり、アヘン販売、胡椒・ガンビル栽培から得た資金の一部を植民地経営に必要な資金として供給したこと

ラッフルズの自由主義経済システムは聞こえはいいが、自由貿易ではシステム基盤維持の資金を得られない。現実の植民地政府は中国人裏社会と結託して儲けることにしたわけである。表は自由貿易、裏は中国黒社会との結託という2つのやり方。これを著者は「秩序形成の二つの原理」と読んでいるのである。

先ほどの図であるが、小生のポルトガル海上帝国も灰色で塗って示している。ラッフルズの海上帝国ともイギリス非公式帝国とも違って、バリ・ロンボク、マカッサル、カリマンタン、ルソン、台湾という南北に長い形になっている。こんなので連携できるのか?

「海の帝国」、第1章しか紹介していないので続きはまた後ほど。

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