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2009.04.28

星菫派(せいきんは)批判とやら

出張のお供としてこういう本を読んでいた:
加藤周一中村眞一郎福永武彦『1946・文学的考察』(冨山房百科文庫)

長らく入手できなかったのだが、つい最近、オアゾの丸善で購入することができた。

1946・文學的考察 (冨山房百科文庫)1946・文學的考察 (冨山房百科文庫)
加藤 周一 中村 眞一郎 福永 武彦

冨山房 1977-04-08
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これは3名の高名な作家・評論家(「マチネ・ポエティク」と呼ばれる)が終戦翌年の若かりし頃に書いた文学批評集である。ここには戦前・戦中・戦後の日本の文壇に対する痛烈な批判や世界的な文学の情勢の紹介などが収められている。

目次




    • 焦点・新しき星菫派に就いて
    • 時間・ペトロニウスの饗宴
    • 空間・文学の交流



    • 焦点・田舎からの手紙
    • 時間・ダンテの『地獄』と僕たちの地獄
    • 空間・或る時一冊の亡命詩集の余白に



    • 焦点・二つの現実
    • 時間・1945年のウェルギリウス
    • 空間・もう一人のモオリヤック



    • 焦点・焼跡の美学
    • 時間・「アガメムノン」と共に
    • 空間・二人の復員兵



    • 焦点・或る女友達の疑問
    • 時間・ボオドレエル的人生
    • 空間・我々も亦、我々のマンドリンを持つてゐる



    • 焦点・作家と行動
    • 時間・金槐集に就いて
    • 空間・ラニイ・バッド



    • 焦点・知識人の任務
    • 時間・エロチスムの不易と流行
    • 空間・ジャン・ポオル・サルトルとジョン・ドス・パソス



    • 焦点・70歳の論理
    • 時間・オイヂプスの運命
    • 空間・オルダス・ハックスリの回心



    • 焦点・人間の発見
    • 時間・寓話的精神
    • 空間・日本に於けるヘルマン・ヘッセ

最初のエッセイ(というのか批評というのか)「新しき星菫(せいきん)派に就いて」は加藤周一によるものだが、星菫派論争なるものを引き起こしたという。星菫派とはWikipediaにもあるように「星やすみれ(菫)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌にうたった浪漫主義文学者のこと」だが、ここで「新しき星菫派」と命名されているのは、戦時中の文学青年たちのことである。新しき星菫派に対して加藤がどのような批判をしたのかについての情報があまりネット上に見当たらないので(わずかにブログ記事「加藤周一 死去の報を聞いて」に取り上げられている程度)、本記事で紹介しようと思う。

加藤周一が矛先を向けている「新しき星菫派」とは、戦時下の文学青年たちのことで、加藤は次のように糾弾している:


  • 寸毫の良心の呵責を感じることなしに、最も狂信的な好戦主義から平和主義に変わり得る青年
  • 殆ど総てのよき芸術に可なり深い理解を示しながら、その教養が彼の父親の戦時利得を俟って始めて可能であったと云ふことを理解しない青年
  • かなりの本を読み、相当洗練された感覚と論理とをもちながら、凡そ重大な歴史的社会的現象に対し新聞記事を繰り返す以外一片の批判もなし得ない青年
  • 充分に上品であり、誠実であり、私の如き友人に対してさへ遺憾なく親切でありながら、例えば彼の父の如き軍国の支配階級の犬共が搾取し、殺戮し、侮辱した罪なき民衆に対しては、全く無感覚な青年

よくもまあ、これだけ悪口を並べることができるものだと感心する。加藤はさらに星菫派を
軍国主義を脱れながら、軍国主義政府とその弾圧とを間接に利用し、資本主義社会を呪ひながら不労所得に依て生活し、自由なる個人を装いながら、明らかに封建的支配階級のために、人民を戦争と飢餓とに駆立てた宣伝に対して、旗幟を鮮明にしなかった

と批判する。

加藤は星菫派の唱える芸術、哲学、思想なぞ「子女の玩弄に供しうる」程度のものだとも言う。加藤にとっては「危険な『人生を確実に歩むために真を偽から区別する』ことを教えるのが哲学」であり、「『解釈するのではなく、改造する』ことを目的とするものが思想」である。星菫派が持っているのは「現実に対して無力な哲学、歴史を判断することのできない思想」なのである。

加藤は星菫派は教養があるかのように見えて実は無学であるとも批判している。

試みに、最近リルケに就いて書いた星菫派の詩人乃至は詩論家の任意の十名をとつて「悲歌」を与へ、解釈の答案をつくらせれば、抑々リルケの流行が何であり、星菫派の独逸文学理解が何の程度のものであるか忽ち明白になるであろう。例へば、十中の五人は全く独逸語を解しない。三人は独逸語を介するが、「悲歌」は読んでゐないと白状する。多くて二人が読んだこともあり、翻訳も出来ると云ふにすぎないであらう。

最後に加藤はこのように書いて文章を結んでいる:

要するに新しき星菫派は小児病患者の芸術的思想的遊戯に過ぎないが、流行は全く嘔気を催させるものであり、筆者は衷心からその流行の中絶と、彼等が理性の道へかへることを希望している。

加藤は、戦争中は現実から逃避していながら、戦後は無批判に平和主義に転向した人々を無学・無力・無節操と批判し、また同時に彼らに対して勉学と過去への反省と現実の直視とを要請しているのである。まっとうな批判だと思うが、当時こんなに徹底的に批判された側はムカーッときただろうと思う。

それにしても当時27歳の青年だった加藤周一。たいした文章力だと感心した。

戦前・戦中・戦後の文壇の無学・無力さかげんについては福永武彦が「文学の交流」や「二つの現実」で徹底した批判を行っているが、これについては別の記事で紹介する。

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