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2008.12.22

【「構造改革」への反転攻勢】「資本主義はどこまで暴走するのか」

毎日新聞の片隅に広告が載っていたのでピンと来て買ったのがこれ:
森永卓郎、吉田司『資本主義はどこまで暴走するのか』(青灯社、1575円)
Yoshidamorinaga

アキバ好きの経済評論家として知られる森永卓郎(もりなが・たくろう)氏とへんてこな文体が特徴のノンフィクション作家吉田司(よしだ・つかさ)氏による対談集である。

短い書評(レビュー)をアマゾンの方に書いておいたが、そこでは字数制限の都合上、書ききれないことがたくさんあったので、ここに記す次第である。

この本はいわゆる「構造改革」路線への反撃の狼煙(のろし)である。「構造改革」が「自己責任」の名の下、セーフティネットを破壊し、格差社会を生み出した。いまこそ日本を「構造改革」という魔法から解放しなくては!という主張の本である。

本の内容は大きく2つに分かれる。

前半は「構造改革」を掲げる新自由主義(※)≒金融資本主義によって、平等を旨とする日本型資本主義(※※)社会が破壊された経緯の検証である。あれこれ問題を抱えながらも、日本は日本型資本主義によって格差の少ない社会を築いていたのだが、日本の富に目をつけた米国(の支配層)によって、新自由主義が強制的に導入され、旧来のシステムが破壊されたという。米国の画策だけではこれは実現しない。日本における新自由主義の展開には対米協力者(コラボレーター)の手引きがあったのだという。コラボレーターは米国留学組であり、米国支配層の豊かさに圧倒され、「日本もかくあるべし」と洗脳されて帰ってきた人々である。この本ではコラボレーターとして日銀エリート行員たちや竹中平蔵が挙げられている。日本の土地バブルとその崩壊はコラボレーターによって引き起こされたのだとか、まあ、「陰謀論」くさい感じもするが、帝国主義リバイバル版の新自由主義によって日本は1920年代に戻されてしまったというのは、歴史を学んだものとしてはわかり易い構図である。

新自由主義信奉者に対する森永氏、吉田氏の怒りは凄まじい。以下、爆発した瞬間を引用:

森永卓郎:「てめえら、金を右から左に動かしているだけで何の文化も創っていない。私すごくむかつくんですよ。やつらは音楽の話、文学の話、いま話しているような経済の歴史についての話なんかしないんですよ。金の女の話だけ。そんなやつらが、日本の支配者になっているというのが私はとても気に入らないんです(65ページ)」

吉田司:「僕は経団連会長の御手洗冨士夫のやり方についてはものすごく腹が立っているんですよ。会長職にあるキヤノンで派遣労働、偽装請負が発覚したら、法律の方が悪いから、法改正しろというやり方、ふざけんなというか(79ページ)」「(御手洗資本主義について)この本質は一体何なのかというと、偽装労働のピンはねでしょ。あるいはネットカフェの<タコ部屋>労働。これは<ヤクザ資本主義>としか言いようがないんです(80ページ)」


しかし、悲しいかな、新自由主義は格差社会で負け組となってしまった人たちから支持をうけてしまうのである。規制のない世の中だし、能力とチャンスがあれば、一発逆転、億万長者になれますよ、ということで。でもそんなに世の中甘くない。能力というのはコツコツと時間をかけて勉強しなければ身につかない。勉強を続けるためにはある程度の資金が必要。また、チャンスも情報収集能力や人脈がないとつかめない。そういうものを持つためにはやはり資金が必要。結局、お金がないと一発逆転すらできないのである。

後半は新自由主義にどう抵抗するべきかという話である(というか現時点では新自由主義は崩壊寸前なので、その崩壊後、どういう経済体制を築こうかということになる)。森永氏と吉田氏は新しいタイプの経済について模索している。森永氏としてはヨーロッパ型社会民主主義を一つの手本として考えている。また、作り手と買い手が互いに顔の見える範囲で取引をしている、アキバの「共同生産共同分配の原始共産制みたいなもの」にも注目している。

まあ金の魅力はすごいから、そんなにうまくいくのだろうか?という疑問は残る。しかし、「何でもかんでも金で買えると思ったら大間違い」という状況を作り出すことができれば、新自由主義の復活を防ぐことができるだろう。
とりあえず、リスクは売買できない、ということを今回の金融危機は示してくれたと思う。

アマゾンでの紹介:

資本主義はどこまで暴走するのか資本主義はどこまで暴走するのか
森永 卓郎

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青灯社での紹介:「資本主義はどこまで暴走するのか


※新自由主義
新自由主義は新古典派経済学に基礎を置いている。新古典派経済学の主張するところによれば、「均質で原始的な経済人のおのおのが合理的判断と完全な情報に基づき、貨幣を媒介として市場で利己的に競争しあうことにより、「見えざる手」による均衡が訪れる」(Wikipediaより)のだそうだ。

しかし、実際にはそんなことにはならない。例えば「完全な情報」などということがありえるだろうか?競争開始時点で情報が全ての人に行き渡ることなどありえない。一握りの人々に偏るのが常である。また、その一握りの人々とは大体の場合、権力か富を支配する人々である。他にもおかしいのは「利己的に競争」という点。自己犠牲など利他的行動の可能性を忘れているし、競争を好まない人々もいるということを忘れている。新自由主義とは万人が万人と争うという、野獣のごとき人間観もしくは社会観ですわ。

新自由主義の考えの下、1980年代からサッチャー、レーガン、中曽根康弘が規制緩和、国営企業の民営化、社会保障制度の見直しを開始した。この時点では新自由主義は硬直化・停滞した社会経済システムの効率化を進めるという好影響を与えた。しかし、その後、新自由主義の信奉者たちは各国の社会的な事情を考えない強引な市場のグローバル化を推し進め、資本移動の自由を確保した。さらに金融工学でフル装備してなんでもかんでも市場で取引できるようなシステムを作り上げた。日本においては究極の新自由主義は小泉純一郎&竹中平蔵による一連の経済政策である。その結果はご覧の通り。

※※日本型資本主義
日本型資本主義は1940年代から始まる統制経済の流れを汲む修正資本主義である。様々な規制があったり、談合があったりするため、その枠内では能力のあるものがその能力を出し切れないという問題がある。しかしながら、コツコツ努力すれば報われるし、オチコボレないように助けてもらえるという点は優れている。

実は麻生太郎首相の祖父、麻生コンツェルンの創始者、麻生太吉氏は1920年代の不況による農村の壊滅的状況を見て、「…巨大資本の所有を萬悪の源なりとなす」と主張し、統制経済の道を選択したとか(本書138ページ参照)。

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