世界の共同主観的存在構造
物象化論によって商品を検討すると、商品は、基本性能、耐久性、信頼性、適合性、サービス性、審美性などの基準で判定される「使用価値」を担うだけでなく、感性品質のような社会関係にもとづく抽象的な価値をも担っている。
使用価値はいわば人間感覚で理解できる「感性的」なものであり、抽象的な価値は人間感覚を超えた「超感性的」なものである。商品に限らず、社会的な存在はすべてこのような「感性的超感性的」、廣松渉用語でいえば、「レアール・イデアール」な二重の性質を持っていると考えられる。
このような二重性を認識論にまで推し進めたのが廣松渉独自の「世界の共同主観的存在構造」である。
たとえば、今、小生に聞こえた音は猫の鳴き声として聞こえたとする。このとき、音は純粋な音波として聞こえているだけでなく、猫の鳴き声という意味を帯びている。つまり我々が認識するものは単純な現象(所与=データ)そのものではなく、すでに何らかの意味を帯びているわけである。これを現象(フェノメノン)の二重性、あるいは対象面の二重性という。
また、小生が今、聞いた音を猫の鳴き声として認識していたとしても、ひょっとしたらそれは、赤ん坊の泣き声かもしれない。なぜ、猫の鳴き声として判断し、赤ん坊の泣き声として判断しないのだろうか?これは、世間一般のほかの人が聞いても猫の鳴き声だろうとして判断しているのである。つまり、小生は世間様の一員として、世間様に成り代わって判断しているのである。つまり小生が小生以上の何者かとして判断を行っているのである。これを認識側の二重性、あるいは主体面の二重性という。
対象面、主体面それぞれの二重性で成り立っている構造を、「世界の共同主観的存在構造」という。廣松渉の言葉を引用すれば、「所与がそれ以上の或るものとして、『誰か』としての或る者に対して」存在するという構造である。
対象と主体のそれぞれが二重性を持っているので2×2=4、つまり、認識は4つの足を持っているというわけである。これを四肢構造と呼ぶ。
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コメント
ちょっと意見が違うので書き込みたいと思います。初心者ですので的外れでしたら申し訳ない。
対象と主体者がそれぞれ二重性を持っているので四肢的構造であるとありますが、四肢とは所与-所識と能知-能識構制の謂いであったと思います。前者は視覚風景内の像で後者は視覚風景内に浮かぶ表象だったと思います。人が世界で存在するにはそうあらざるを得ないという意味で世界は四肢的構造なわけです。これは対象と主体者がそれぞれ二重性を持っているということを意味しないと思うのですが。
投稿: たにぐく | 2011.08.17 05:30
たにぐく様。
小生の表現が適切でなかったかもしれませんが,「対象と主体」とは「対象面と主体面」のことであり,「対象と主体者」ということではありません。
「四肢とは所与-所識と能知-能識構制の謂い」というのはまさにその通りです。
「所与-所識」構制とは「我々が認識するものは単純な現象(所与=データ)そのものではなく、すでに何らかの意味を帯びている」こと,「能知-能識」構制とは「私が私以上の何者かとして判断を行っている」ことに他なりません。
投稿: fukunan | 2011.08.23 01:44
ご返答いただきありがとうございます。なるほど、そういうことだったのですね。能知-能識ということを考えると確かに主体という言葉の用法に納得です。また書き込むかもしれませんが、よろしくお願いします。
投稿: たにぐく | 2011.08.26 04:35