物象化論
「物象化論」は「疎外論」に対する批判として1960年代後半に廣松渉が打ち出した思想である。
「疎外」とは次のようなことである:
近代以降、人間は自ら生み出した社会システムに主導権を奪われ、その歯車に成り下がっている。これを疎外という。今こそ、失われた人間性を取り戻さなくてはならない。
廣松渉は「主体性を持った人間がある」という前提に問題があると見た。そして、マルクスの原典を研究することにより、まず、社会的な関係があって、その結果として人間というものがあるという考え方を示した。まず関係があって(関係の第一次性)、その関係が物として現れる(物象(ぶっしょう)化)ことを「物象化」という。
廣松渉はこの「物象化」の考え方をあらゆる場面に適用し、「物象化論」というものを打ち立てた。まったく無関係でありながら、同じ時期にフランスを中心として発達した「構造主義」の考え方と類似しているところが面白い。
物象化論を労働の価値に当てはめると、次のようなことになる:
労働の価値を図る尺度(たとえば時間単価)があって、それにもとづいて労働の対価が払われるのではなく、社会関係によって労働の価値が決定される
小林敏明『廣松渉―近代の超克』から例を引用しよう:
一人の人間が汗水たらして作った米を売って得た金額と、別の人間がわずか数分の電話取引で得た株売買の利益との間に、なぜあんなに理不尽なまでに極端な差が生ずるのかを考えてみればよい。「価値」がけっして単純な人間の労働量などで決まっているわけではないことが一目瞭然のはずである。(84ページ)
物象化論をブランド品にあてはめてみるとこんな感じだろうか:
ブランド品はなぜ高いのか?同等の素材でできており、同等の機能を持つ商品があったとしても、ブランド品と同じ値段で売れるとは限らない。それは、消費者の側に、ブランド品をブランド品であるという理由で尊ぶ風潮があるからである。つまり売り手と買い手、さらに買い手同士の間の社会的な関係が、ブランド品の価格に反映されるわけである。ブランド品は社会関係が物象化したものである。
経営学では商品の品質には、基本性能、耐久性、信頼性、(法規に対する)適合性などの「当たり前品質」のほかに、サービス性、審美性、感性品質などの「魅力的品質」があるとされている。「感性品質」は難しい概念であるが、具体的にいえば、その商品を持っていることによって社会的に賞賛されるなどの性質のことである。上述の物象化論に照らしてみれば、この「感性品質」こそが社会関係を反映した部分ということになるだろう。
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